母との確執

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 本に貴賤がないように、職業にだって貴賎はない。  どんな種類の仕事であろうが、社会の歯車の一つなのは変わりない。 (だから、最初にアルバイトをしたいってお母さんに相談した時、色んな職業を否定されてとてもつらかったっけ。可愛いカフェの店員さんとか、憧れていたのに)  実家から離れて初めて、春佳の中で母への明確な不満が湧き起こってくる。 「春佳は長い間、あの女に洗脳されてきた。本当はあいつが毒親だって分かっていたんだろ? でもそれを認めてしまえば、自分は〝毒親に自由を奪われている可哀想な存在〟になってしまうから、現実から目を背けていた」  冬夜の正論が、鋭利な刃物のようにスッと心に刺さる。  だが鋭利すぎて切り口が見事だからか、雑な痛みはない。 『傷付いた! どうしてそんな事を言うの!』という反感を抱かない代わりに、ジワジワとした痛みが広がり、今までの自分がいかに愚かであったかを知らしめてくる。 「洗脳されている間、俺がどれだけ〝外〟から『その家はおかしいから離れたほうがいい』って言っても、お前は聞き入れなかった。あのクソジジイに襲われなければ、母親に金を使い込まれたと知っても、『心を病んだ人のする事だから仕方がない』と受け入れたかもしれない」  冬夜の言う通り、岩淵に暴力を受けて初めて春佳は我に返った。  思い切り打たれて犯されかけて、ようやく自分は酷い仕打ちを受けているのだと気付いたのだ。  逆に、そこまでされないと、自分が置かれている環境の異常さに気付けなかったとも言える。 「…………私、〝普通〟じゃなかった?」  心の中はカサカサに乾いていて、ひりつくほどに悲しく、耐えがたい痛みを感じている。  虐待されていると自覚できないほど麻痺した心が、急に常人の心を得てまっとうな権利を主張できるはずがない。  春佳が母に対して『ずっと精神科の薬を飲んでつらい状況にあるんだから、急に元気になって普通の中年女性のように振る舞える訳がない』と思っていたのと同じだ。  だが真実を知った今、世間一般でいう〝普通〟が何なのか、自分が〝どう〟だったのかきちんと知りたいと思った。  妹に問われ、兄は真摯な表情で頷いた。 「春佳は〝普通〟じゃなかった。あの女は自分の小さな世界の平和を保つために、春佳の人生を奪い続けた。『自分の娘はこうあるべき』という理想を押しつけ、お前個人の望みを聞き入れなかった。春佳は、あの女が『自分が産んだ子供だから、自分が望むように育てていい』という考えのもとに飼育してきた家畜だ」  ――家畜なんて、酷い。  心の中で呟いたが、兄の意見は世の中の人が忌憚なく言う言葉を、凝縮させたものなのだろう。  友達の多くは、春佳が母にされた事を打ち明けると『大変だね』と言って、それ以上積極的に悩みを聞こうとしなかった。  きっと彼女たちは『本当の事を言えば春佳を傷つける』と思っていただけで、心の底では兄と同じ事を感じていたに違いない。  冬夜は続ける。 「家畜は用意された餌を食べ、安全な寝床で育てられる。でも自由はなく、外の世界がどうなっているのかまったく知らない。俺から見て春佳はとても世間知らずだと思うし、友達もそう感じていると思うよ」  今まで接してきた友人の反応を思いだし、春佳は小さく頷く。 「春佳は人間だから屠殺されないけど、もしかしたら一生独身のままあの家で飼い殺されたかもしれない。もしかしたら、あの女が見つけた正体の分からない男と、結婚させられた可能性もある」  あり得なくはない、と春佳は心の中で呟いた。 「結婚は心から好きになった人と、その後の人生を共に歩むためにするものだ。誰かに決められて、そいつの利益や望みのためにするもんじゃない」  以前なら『またお兄ちゃんが説教する』と思って、話半分に聞いていた言葉が、今はこんなにも生きた言葉として胸に染み入ってくる。 「……私、これからどうすればいいの?」  春佳はマグカップを置いておずおずと尋ねたが、兄は安易な道を教えてくれなかった。 「俺は兄としてお前を助けて守る。でも春佳の人生を決めるつもりはない。ある程度の助言はするけど、新しい事に挑戦するのも、知らない人と接するのも、春佳自身が学びながら実践していくしかない。それが自分の人生を生きるっていう事だ。……失敗しない人はいない。どれだけ恥を掻いたとしても、誰かを怒らせ、悲しませ、失望させても、俺はお前の家族としてずっと味方で居続ける。……だから、頑張れ」 「頑張れ」というありふれた応援を、こんなにも重く受け止めた事はない。 「……うん。……頑張る」  春佳は人生の先輩からのメッセージを真摯に受け止め、頷いた。
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