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母の入院
冬夜のマンションに避難した翌日、兄と一緒に病院に行った。
顔の怪我は、頬の腫れと、口の中を切った事、鼻血を出した程度だ。
だが冬夜は岩淵に治療費を請求すると言って、医者に診断書を書いてもらっていた。
警察に被害届けを出そうと言われ、冬夜に付き添ってもらって警察署に向かうと、女性警察官が真摯に話を聞いてくれた。
彼女は冬夜が出した名刺と、彼が撮った写真を見せると「暴力は良くないね」と溜め息をついたが、春佳の腫れた顔を見て静かな怒りを抱いていたようだった。
名刺をもとに岩淵に事情聴取をするらしく、その後なんらかの進展があったら教えてくれるそうだ。
その後、いつまでも大学を休んでいられないので、マスクをして登校する事にし、なんとか日常を取り戻しつつある。
千絵には事のあらましを軽く説明し、「家から出られたなら結果オーライなんじゃない?」と前向きなコメントをもらった。
これからはもっと自分の意志を強く持って、人生を積極的に生きていこう。
そう思っていたのだが――。
**
八月下旬、母が精神科に入院した。
直接的な原因は分からないが、精神的な発作を起こし、薬を大量に飲んで浴室で手首を切ったそうだ。
階下の住人がずっと水音が聞こえている事に不信感を抱き、通報したのがきっかけだった。
母は浴室でぐったりしているところを保護され、救急車で病院に運ばれた。
薬を過剰摂取していたので胃洗浄を受け、手首の傷も神経を繋げる外科手術を施され、数日入院してから救急病院を退院した。
だがそのあとは、精神科の主治医に言われて長期入院となったらしい。
「どうしよう、お兄ちゃん。私のせいだ」
午前中、大学で連絡を受けた春佳は、真っ青になって仕事中の兄に連絡する。
《俺が対応するから、春佳はいつも通り過ごせ》
母が死んでしまうかもしれなかったのに、冬夜は淡々としている。
動揺しているなか、落ち着いた声音を聞くと少しずつ冷静になり、兄がいて良かったと心底感じた。
「私、お母さんの入院に必要な物、用意する」
《いいって。今日、俺が帰りに病院に寄って必要な物があるか聞く。春佳は佃のマンションに帰って、飯でも作ってて》
冬夜は春佳をあの家から遠ざけたがっているが、何もかも兄にやってもらうほど子供ではない。
「私、大丈夫だから!」
講義室から出た春佳は、廊下のベンチで少し大きな声を出す。
周囲は講義のない生徒たちが談笑しながら歩き、いつもと変わらないキャンパスの光景が広がっている。
そんな〝日常〟の中で、自分だけが異物になったように思えた。
淀みなく流れている川のせせらぎの中、自分の周囲は石が堆積し、水がうまく流れない。おまけにその水すら濁っているように感じられる。
笑顔で会話している彼らは、きっと何の悩みもないのだろう。
理解のある家族から仕送りを受けて、悠々自適と一人暮らしをしているか、太い実家から通い、帰宅すれば何もせずとも母親が作った温かい料理が出てくる。
――それなのに私は……。
胸の奥に、黒くて重たい石が投じられ、そこから重力が生じて周囲のものを何もかも吸い込もうとしているようだ。
自分の意識に呑まれようとした時――。
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