母の入院

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《おい、春佳。聞いてるか?》  耳元で兄の声がし、ハッとする。 《意地悪で言ってるんじゃない。せっかく春佳はあの家から出て、精神的に自立しようとしているのに、またあの女に関わらせたくないんだ。自殺未遂したからといって『自分がいなきゃ駄目なんだ』と思ったら、お前はまたかいがいしく母親の世話をするだろう。それじゃあ、今までと何も変わらない》  冬夜の言葉を聞き、胸の奥で凝っていた感情がゆっくりとほどけていく。 《面会すれば、あの女はお前の優しさを利用して、また支配してくるに決まっている。それに、あの女は今いつも以上に不安定になっている。顔を合わせたら酷い事を言われて、余計に傷付くかもしれない。あいつはもとから情緒不安定だったが、今は自分の不幸のすべてが、お前のせいだと思っている可能性もある。あいつはつらい事を誰かのせいにしなきゃ自分を保てない、心の弱い女なんだ》  言われて、心に納得が落ちる。 (そうか……。面会したらまた怒鳴られるんだ)  冬夜のもとに身を寄せてから、母の怒鳴り声や暴力がない日常を送り、あれは何かの間違いだったのではと思うようになってきた。  引っ越してから一週間も経っていないし、心の傷がそう簡単に言える訳がない。  春佳は虐待された心の傷から目を逸らして己を保ち、必死に現実を生きようとしていた。  なのに冬夜の言う通り、母と会って怒鳴られ人格否定をされれば、せっかく兄が環境を変えてくれたのが台無しになる。  再出発した自分の基礎を積み始めているばかりなのに、母に会えば凄まじい嵐が吹き荒れ、春佳がちまちまと積んだ石たちは簡単に吹き飛ばされていくだろう。  兄はそれを危惧しているのだ。 「……お兄ちゃんに任せていいの?」 《ああ。……むしろ任せてほしい。俺はあの家を出てお前を一人にし、ずっと負い目を感じていた。今は全身全霊で春佳の力になると決めている。だから償いのためにもそうさせてくれ》 (償いなんて……)  自己犠牲の気持ちで、つらい目に遭ってほしくない。  心の中で呟いたものの、今は冬夜に任せるのが一番なのだと言い聞かせた。 「じゃあ、お願い」 《分かった。代わりに飯頼むよ》 「うん」 《勉強、しっかりな》 「はい」  春佳は電話を切ったあと、溜め息をつく。  考えなければならない事が沢山あるのに、何一つまともに受け止められていない。  父の死すらきちんと悲しめていないのに、母の世話をする生活に岩淵が乱入し、これだ。 (これが人生か)  一つ一つの出来事を満足いくまで納得させてくれるほど、時の流れは優しくない。  絶えず流れ、時に濁流となって荒れ狂い、春佳が悲鳴を上げて「もう許して」と言っても流れる事をやめない。  時にはゆるゆると穏やか流れ、美しい景色を見せてくれるかもしれない。  けれど、いつ頃から人生が楽になるかなんて、渦中にいる者には分からないのだ。 (今は自分のやる事をしよう)  深呼吸をしたあと、春佳はコソコソと講義室に戻った。 **  冬夜と共同生活をして半月が経ったが、兄いわく母の容態は「相変わらず」らしい。  恐らく母は若い頃に何かがあって精神科に通うようになったのだろう。  長い間通院して不安定ながらも小康状態を保っていたが、夫の死が大きなショックとなって自暴自棄に陥った。  さらに自死しようと思った引き金が岩淵の事だった――、かは、母に聞かないと分からない。  九月頭の週末、冬夜は風呂上がりに麦茶を飲みながら言う。 「母親は病んでいる人だけど、持病や親父の死、先日のクソオヤジの件以外にも、色んな要因を抱えていたと思う。何か一つの出来事が理由なら、その直後に自殺しようとしたはずだ。でもグダグダと病みながらも、あの女は生き続けてきた。少なくとも『生きたい』と思う理由はあったはずだ。……今回の自殺未遂にクソオヤジが関わっているとしても、きっかけの一つに過ぎないんじゃないかな。長年溜め続けたつらさが、表面張力を超えて溢れてしまったんだと思う」 「そうだね……。私にとって〝いいお母さん〟であった事もあるから、生きる事そのものがつらかった訳じゃないと信じたい」  頷いて母の良かった点を口にしたが、冬夜はあまり認めたくないようだった。
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