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――お兄ちゃんが作ってくれたカルボナーラのほうが美味しい。
兄と二人暮らしをするようになってから、彼の料理を食べる機会が多くなった。
春佳にとって冬夜が作る料理はすべて、店で食べるのと遜色のないご馳走だった。
二人で小さなダイニングテーブルを囲み、『美味しいね』と言って穏やかで平和な時間を過ごしていたのに……。
――あの大切な時間を、あの女に奪われていいの?
再度、心の中の自分が尋ねてくる。
もう一人は言い返さない。
……が、少ししてから、ポコンと、深い水底からあぶくが湧き起こるように返事があった。
(『とられたくない』なんて幼稚な感情を持っていたら、こっちが悪者になる)
――なら、加害者にならなければいいでしょ。
ポコン、ポコンとあぶくは少しずつ数を増していく。
――今まで通り、お兄ちゃんがつい守りたくなる妹でいればいいんだから。
その考えを思いついた時、春佳は無意識に微笑んでいた。
まるで大輪の黒薔薇が咲いたかのような、毒々しい悪意に満ちた美しい笑みを見て、千絵がいぶかしげに声を掛けてきた。
「どうした? 春佳」
親友に声を掛けられ、彼女はいつもの微笑みを浮かべる。
「ううん。これから、ちゃんとしないといけないな……と思ってたところ」
「……そう? ……そうだよね。色々複雑だと思うけど、頑張れ」
千絵の励ましに頷きながらも、春佳は別の事を考えていた。
春佳は兄と女性に気づかれないように店を出たあと、すみやかに家に帰った。
佃のマンションに着いてシャワーを浴びたあと、先にベッドに入る。
春佳が思いついた事は、ある種の賭けだ。
負けてしまえばあの女と冬夜の関係を、祝福しかねない。
だが春佳はリスクを負ってでも、兄との今の暮らしを手放したくないと思っていた。
やがて冬夜が帰宅した物音が聞こえ、そっとドアを開けて室内を窺う気配がする。
身じろぎせず眠ったふりをしていると、ドアは静かに閉まり冬夜も寝る支度を始めたようだった。
彼に考えを打ち明けるのは、明日の夜。
春佳は様々なセリフを考えては打ち消し、推敲し、頭の中で台本を組み立てていく。
たいそうな事をする訳ではないが、自然にアプローチする必要があるので、今までの自分の心情などすべてを客観視し、不自然に思われないセリフを考える必要があった。
考えるうちに頭は興奮し、まんじりともせず朝を迎え、ぼんやりとした頭で大学に向かった。
**
翌日の夜、春佳は夕食にオムライスを作った。
ケチャップご飯を作るまではいいが、玉子で包むのはまだうまくできない。
形の悪いオムライスを冬夜は「美味いよ」と言って食べてくれる。
嬉しく思いながらも、春佳はあまりスプーンを動かせずにいた。
「どうした? 食欲ないか?」
兄に尋ねられ、春佳はスプーンを持っていた手を止める。
しばらく黙ったあと、彼女は思い詰めた表情で言った。
「私、この家を出ていく」
妹の決意を聞き、冬夜は静かに瞠目した。
「……なんで」
よほど驚いたのか、彼は数秒沈黙してからそれだけ言う。
春佳は視線をテーブルに落とし、言いにくそうに唇を引き結び、溜め息をつく。
そのまま黙っていたからか、焦れったくなった冬夜が少し語気を強めて「春佳」と名前を呼んだ。
春佳はとうとうスプーンを置き、両手を膝の上にのせる。
それから、迷いながらも、ボソボソと小声で打ち明けた。
「……私がいたら、お兄ちゃん、ろくに恋愛もできないんじゃないの?」
視線を上げると、冬夜は微かに目を見開いていた。
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