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「先日、代々木上原にあるイタリアンバルに行きましたよね?」
「確かに行ったけど」
小村は日差しを気にするように手で庇を作り、眩しそうに少し目を細める。
そのちょっとの仕草すら、イライラする。
(私だって貴重な時間を削って話してるんだから、鬱陶しそうな態度をとらないでよ)
唇を微かに噛んだあと、春佳はジッと小村を見据えて言った。
「あの時、私も友人と同じ店にいたんです。随分親しげに話していましたけど、兄には他に大切な人がいるので、二人きりで会うとか、誤解を招く事をしないでください」
冬夜には現在彼女もいないし、好きな人すらいない。
だが〝大切な人〟とぼやけた主語の裏に、自分の存在を隠した春佳は、「どうだ」と言わんばかりに小村を見つめた。
――お兄ちゃんが私を守ってくれているなら、私だって守り返さないと。
完璧すぎる兄に憧れた妹が、とっさにとった愚かな行動であったが、義憤に駆られた春佳はこれで小村を言い負かしたつもりでいた。
彼女は一瞬固まったあと、困惑したように眉を寄せる。
そのあとしばし間を置いて、静かに息を吐いた。
「春佳ちゃん、誤解してるようだけど、私と瀧沢くんはただの先輩と後輩なの」
「だって……」
まだ言い訳するかという顔をした春佳に、小村は静かに手を突きつけ首を左右に振る。
「確かに瀧沢くんは素敵な人だよ。妹の春佳ちゃんから見たら、理想の男性で自慢のお兄さんだと思う。あなたの目から見ると、世の中にはお兄さん以上に素晴らしい男性はいないと思うの、分かるよ」
――『分かる』なんて、知ったような事を言って……。
春佳は強い苛立ちを覚えるものの、とりあえず小村の言葉を最後まで聞く事にした。
「先日は瀧沢くんに呼ばれて仕事の相談を受けていただけ。申し訳ないけど私には恋人がいるし、彼の事は素敵だと思うけど恋愛感情は抱いていないの」
「……嘘……」
怒りに水を差された春佳は、まだ小村を疑いながらも呟く。
「ちょっと待ってて」
そう言って小村はスマホを出し、少し操作したあと写真を見せてきた。
「この人が私の彼氏。瀧沢くんほどイケメンではないけど、優しくていい人で、結婚も考えてる」
写真には小村と三十歳ぐらいの男性が写っていて、後ろにはグリーンの海が広がっていた。
小村に彼氏がいる証拠を見せられ、春佳の中で荒れ狂っていた怒りが、急激に萎れていく。
(……じゃあ、なんで……。だってお兄ちゃんは『小村さんに迫られてる』って言った。私に嘘をつくはずがないし……)
小村は安堵した表情をし、スマホをしまいながら言う。
「男女が二人で飲食店にいたら、誤解されても仕方ないよね。私も彼氏がいる身だし、今後気をつけるね。でも仕事が絡むと『絶対会わない』とは言い切れないから、見逃してくれないかな?」
そう言われても、春佳はいまだ状況を整理できておらず、まともに返事ができないでいる。
「自慢のお兄さんを心配する気持ち、理解できるよ。私には歳の離れた妹がいて、とても可愛いからモンペみたいになっちゃうし、本当に気持ちが分かるの」
「でもね」と言い、小村は春佳に視線を合わせる。
「こうやって暴走すると、逆にお兄さんに迷惑を掛けてしまう場合があるから、もう少しよく考えて行動したほうがいいよ。彼だって二十四歳の大人だし、妹さんのお世話にならなくても恋愛はできると思うの」
正論を言われ、春佳はサッと赤面した。
だが小村はそんな彼女を馬鹿にせず、ポンポンと肩を叩いてきた。
「私も十年ぐらい前は突っ走っていたし、色んな間違いをした。これぐらい、可愛いもんだからあまり気にしないで」
軽やかに言って年上の余裕を見せつけたあと、小村は「じゃあね」と言って颯爽と歩いていった。
駅前に取り残された春佳は、そのあとも混乱しながら立ち尽くしていた。
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