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はじまり 三月の死
その部屋は天空にあった。
四月下旬、東京では桜が開花し、あちこちで薄桃色の花びらをハラハラと零している。
世間が春の訪れに浮き足立っている時、その男は港区三田にある高級マンションを訪れ、とある部屋に入って放心していた。
どこもかしこも高級品でしつらえられた室内に、ぐったりと体を弛緩させているのは二十台半ばの美しい女性。――だった存在だ。
彼女はドアノブにロープをかけ、首を吊って死んでいた。
「そんな……」
男の唇から弱々しい声が漏れる。
呼び出しを受けて喜び勇んで駆けつけてみれば、女神のごとく崇拝した彼女は変わり果てた姿になっていた。
変わり果てた姿と感じたのは、遺体になったからという理由だけではない。
昔は艶々していた黒髪は、数日洗っていなかったらしく束になって顔に掛かっている。
思い出の中の彼女はいつも流行の服に身を包んでいたのに、目の前の彼女が着ているのはスポーツメーカーのグレーのスウェット上下だ。
美しかった顔はうっ血し、色を失った唇の端からは冷たくなった泡と涎が零れていた。
その股間は濡れ、室内に臭気が漂っている。
「あぁ……、……あぁあ…………」
男はショックのあまり酷く痛む頭を抱え、一歩よろける。
――彼女はこんな姿を見せるために俺を呼んだのか?
幸せ絶頂で暮らしていると思っていた彼女が、なぜこんな事になっているのか分からず、男は混乱しきる。
と、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
――そうか、彼女には子供が……。
思いだした男は、この残酷な現実から目を背けるために、フラリと別室へ歩きだす。
部屋は高価そうなインテリアで整えられていたが、生活感がなくガランとした印象がある。
男は泣き声に導かれるようにフラフラと進み、ある一室に足を踏み入れる。
母親を求めて泣いている赤ん坊は、室内のベビーベッドに寝かされている。
その部屋には開けていない段ボールが積まれてあり、子供部屋というより物置代わりの部屋をやむなく使った雰囲気があった。
ベビーベッドの近くには紙おむつや玩具があるものの、雑然と床の上に置かれてある。
子供の誕生を喜ぶ親なら、気を遣って床にクッション材を敷くだろうが、その配慮もない。
男は子育てをした事はなく、赤ん坊を育てるにはどんな環境が必要なのかあまり分かっておらず、部屋に親としての配慮がない違和感に気づかずにいた。
男はゆっくりとベビーベッドに歩み寄り、大粒の涙を零して泣いている赤ん坊を見下ろす。
その時、彼は壁際のチェストの上に手紙が置かれてあるのに気づいた。
「もしかして……」と思って手を伸ばせば、〝○○様へ〟と男の名前が書かれてある。
赤ん坊の泣き声がする室内で、男は半ば放心したまま手紙を開けた。
やがて彼は赤ん坊を抱き、女性の遺体をそのままにマンションの部屋を出た。
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