帰宅後、私が向かう場所

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帰宅後、私が向かう場所

 職場から帰宅し熱気がたまった空気を換気し、部屋のエアコンをつけて私が向かう場所は仏壇である。  2年前、杉山亮太(38歳)は営業の外回り営業の勤務中だったが、携帯に知らない番号からの着信があった。 通常なら、プライベートの携帯は知らない番号からの着信は出ないのだが、市外局番が地元の番号だったので、少し嫌な予感がしながら電話に出た。 「もしもし…」 「杉山亮太さんの携帯電話ですか?私は高知救急センター病院の医師の楠木と申します。 先ほど自損の交通事故で、杉山亮太さんのお父様とお母様が救急搬送されました。 お父様の方は全身外傷による心肺停止状態で、今スタッフが懸命に心肺蘇生処置してます。お母様も同じく全身外傷でかなり厳しい状況です。今すぐ病院に来れますか?」   亮太は一瞬思考停止に陥ったが、 「分かりました。今すぐそちらへ向かうよう手配し、再度ご連絡します。番号はこの着信番号でよろしいですか?」 「結構です。よろしくお願いします。」  亮太は会社に事情を説明し、名古屋から高知救急医療センター病院へ急いだ。  病院に到着した時は、2人とも亡くなっていた。 さっき電話をくれた楠木先生から事故状況から救急搬送、この病院で行った医療措置の経緯説明を受け、その後待合で待機していた警察からも経緯説明を受けた。  運転中の父の持病の急変によりハンドル操作を誤り、橋の欄干(らんかん)に突っ込み、エアバッグは開いたものの、全身の強打で亡くなったとの説明だった。 搬送時、母がかろうじて状況を説明したらしい。  亮太は未婚で、身近な人が亡くなるのも初めての経験だったので、葬儀や火葬の手続きなどは何も分からず、地元の葬祭会社と相談しながら最小限の家族葬のプランでお願いした。  親族や、自分の知ってる限りの父母と関係のあった方々に電話で事情を説明した。 火葬を終えた2人の骨を詰めた壺はあまりに小さく、コロナ禍以降年末年始やGWも仕事で帰れず数年ぶりにまさかこんな姿で両親と再会するとはユメにも思っていなかった。  家族は自分一人だったので、かなり悩んだが名古屋の勤務先は退職し、高知の自動車修理業者が使う工具メーカーの営業職に再就職し、実家の一軒家を相続した。  家には仏壇がなかったが、本格的なものは支出的にも厳しかったので、小型なものを用意し、お位牌と2人の仲良く映った写真を並べ、三具足(みつぐそく)とおりんを用意した。  ネットで少しずつ供養の方法を調べたり、ライフラインの名義変更などの手続きを行った。 高校まではこの町で育ったので、想像よりスムーズに地元のコミュニティにも溶け込めた。  名古屋の知人たちとはSNSで繋がってたし、生活環境こそ一変したが、今までとあまり変わらない人生の「次章」を迎えれている気がしていた。 ここから車で1時間ほど移動すると、黒潮町という所があり、休日にはよく1人で車で向かった。 おそらく全国でも珍しい「ホエールウォッチング」のできるこの町は、太平洋を眺めるには絶景スポットである。  「鰹のタタキ定食」の美味しいごはん屋があり、通っているうちに店主とも仲良くなり、サーフィンに連れていってもらうことになり、サーフィン仲間も徐々に増えていった。  この辺りは大型のバイク乗りや、本格的なサイクリストが多い。同世代のサーフィン好きはバイク乗りが多く、「亮太も大型とって、バイク買ってツーリーング行こうや。」とよく誘われる。  つい2年前まで帰宅するのは毎日24時以降で、疲れ果てコンビニ弁当食べて、ネットTVを観ながら寝落ちするような生活だった。  両親が亡くなったのは悲しい事だが、今は自然に恵まれた場所で仕事も休日も充実している。  家に帰ると、まず仏壇のある場所に行って両親に「ただいま」を言う。 お線香に火をつけ、こんな充実した生活を与えてくれた両親には感謝しかない。  先日有給で連休をとって、遂に大型免許を取得した。 次のボーナスでバイクを買うつもりなので、ネットに掲載されているバイクを見ては妄想を膨らませた。
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