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以前…。 私は、 残念なことに…。 とても真面目だった。 完全無欠のつもりで生きていたが、 『笑い』のセンスだけは絶望的にない。 私は冗談のオチが、 理路整然としていて、 まったく笑えないらしい。 オチがオチですらないらしい。 私が冗談を言うと、 たいがいの人は、 『ふ~ん』 とか、 『へぇ~』 など、 変に納得して、 全く、笑いには結びつかない。 私は、勉強ばかりの青春を過ごしてきた。 恋などは、一切…。 苦手なジャンルの一つである。 人は恋に落ちると…。 はて? 恋に『落ちる』。 落ちるのは危険なことではないのか? ならば落ちない方が良いのではないか…。 私の冗談には落ちがないのは、 そのためなのか…。 いや、 断固、 そうではない。 人が面白いと思うことが、よくわからない。 下らない言葉での下らない会話が面白いとは、 全く思わないのだ。 以前、 同僚の女医が、 『笑いに良く効く、薬を処方しましょうか?』 と言った。 笑いに効く薬があるとは聞いたことがない。 専門書や、製薬会社で調べてみたが、 やはりなかった。 間違いない。 あれは冗談の一つだった。 つまらない男…。 そうだろう…。 私もつまらない男だと思う。 今なら思える。 それは、彼女に出会えたから…。 一瞬にして世界そのものが変質した。 いや、 私が変質したのだ。 私は以前は、変質者だった。 変な意味ではないのである。 全裸にコートのような変質者ではなく、 『変わり者』と呼ばれる変質者だ。 今でも、少しは変質が残っているが、 冗談と言うものを理解できるし、 少しは笑える冗談を言えるようになった。 世界を変えたのは『恋』の力。 落ちるのが嫌いな私でも、 見事に『恋に落ちた』。 落ちる落ちる。 高所恐怖症な私だが、 エアポケットには入ったように、 スト~んと、 『あれ~』って言う、暇(いとま)も与えられないような、 猛スピードで、 彼女を好きになった。 きっかけはごく簡単。 恋の落とし穴は…。 いやいや、落とし穴ではない。 恋は突然に目前な、 奇跡の因子がメタモルフォーゼした、 ミラクルが、 ビッグバン的、 まったくもって、 奇跡なめぐり逢いが、 量子力学の、公式を一見して解いてしまうように、 それは事故的な、 しかし、 ごくまれに起こる、重力の特異点のように… 実は…。 一目で好きになってしまった。 一目惚れと言うものだ。 しかし、 この恋は、 一目惚れと呼べるのか… 概(おおむ)ね、一目惚れと言うべきだろう。 前述した、 『笑いに効く薬に』ついて、 同僚の女医に、 薬が必要な程、 私のユーモアは壊滅的なのか聞こうと思った。 なぜだか、そう思ってしまった。 聡明な彼女なら、 正確な答えを教えてくれると、 我ながら、 まったく根も葉もない確信に至ったのだ。 それまでの私は、 同僚と、プライベートな事をほとんど話したことはない。 仕事仲間というものはプライベートを共有してはいけないのだ。 仕事とは、油断できないものだ。 『戦友』であっても友人には、 決してなってはならない。 特に私達のように、 人の命に関わる仕事では…、 人への甘えがミスを生む。 ……私は何を熱く語っているのだ。 仕事の話は、 この二つの恋の物語に深く関連するものだから、 そのうちに後述するとする。 さて、 同僚の女医を、駐車場で待ち伏せる。 しかし、 これは、 まるで…。 なぜだか、 ひどく後ろめたい気分になってくる。 待ち伏せるとは、 言葉が悪い。 しかし、待ち合わせしているわけではないので、 こういう場合は、 『待ち伏せ』が適切な言葉だと思われる。 あぁ、 言葉の適合性など、どっちでもいい。 今、この、胸が、 ドキドキと高鳴るのは、 説明できない。 私の心臓は健康だ。 心臓専門の医者が言うのだから、間違いない。 風が吹く。 甘いピーチメルバの香り。 しなやかな猫を思わせる足運びで、 ゆるかやな風を起こして歩く彼女を、 視線の端に捉えた。 動悸と息切れがひどくなる。 私は健康だ。 大丈夫。 何も心配することはない。 目の前を通り過ぎる彼女は、 白衣のイメージとは… あまりにもかけ離れている。 可憐な花がフワッと歩いているような… 猫や花だと、 私らしくない、 何て抽象的な表現だ。 しかし、口の中がカラカラだ。 口臭が気になった。 手のひらに息を吹きかけて匂いを嗅ぐ。 さっき飲んだピーチティーの匂いがする。 よし。 いける。 声をかけるだけ。 緊張することなんて何一つない…。 あぁ、これが緊張するということなのだ。 ただ私は緊張してるだけだ。 もう、あれこれ考えるのはやめる。 ただ、彼女と話したいだけだ。 『話したい』 だけ? だけでいいのか? 私の脳よ、 思考をストップするのだ。 それは余計なこと。 行け! 混乱気味にピーチメルバの香りを追う。 後ろ姿ごしに、 「やぁ! おつかれさま。」 私は、 もう少し気の利いた言葉、 言えないのだろうか…。 振り返る彼女は、 少し驚いたようだ。 すぐに笑顔を作って、 「おつかれさまでした。 …君が、 わたしに声をかけるなんて珍しいわね。 デートの誘いかしら?」 デート…。 考えてもなかった。 胸が痛む。 イレギュラーに心拍数が跳ね上がって、 変な汗をかく。 真っ直ぐに見つめる彼女の目は笑ってる。 楽しそうな、 からかっているような。 つなぐ言葉を考えていなかった私は…絶句したまま棒立ちに。 フフンと、鼻歌気味に彼女は笑って、 「今夜は暇かしら? 一緒に食事でもいかが? 一人で食べる晩御飯は、 おいしくなくて…」
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