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ただ話したいと思った気持ちは、
この出来事をきっかけに、
恋になり。
いつしか愛に変わった。
私だけではなく、
それは彼女にも、
恋の女神は微笑んだ。
彼女が能動的だったのもある。
前から気になる人だったらしい。
変わり者の私は、
彼女の周りにいないタイプだったのか、
彼女の押しの強さに…
負けっぱなしで…
これは方便だ。
彼女は私の苦手ジャンルを知っていて、
うまく導いてくれたのだ。
私達は夫婦となった。
日々、共にいることは、
安らぎばかりをもたらすものではない。
しかし、
安らぎ以外も彼女との生活の一部。
宝物のような、
かけがえのない日々は、
私を変えていった。
幸福の分だけ、
不幸がやってくるものなのか…。
ならば、
彼女と一緒なら、
私は、
日々、不幸がよかった。
……彼女は、
脳死…
体だけ残したまま…
魂だけ天国へ……。
覚悟ない不幸は、
ノックもなく、
暴力的に訪れる事を知った。
彼女は生前、言っていた。
私がもし先に死んだら、
私の心臓を移植に使ってと…
予感めいた、
彼女は、
それを文章に残していた。
絶望よりも先に、
彼女の願いを果たすことが、
今、
彼女にできる全てのことに思えた。
執刀したのは私。
……オペ中に神が降りてきた。
細胞の一つ一つをつなぎ合わせることを、
イメージできた。
神の手が行った、
完璧な移植手術だ。
心臓移植とは完璧な心臓病の治療ではない。
施術後の存命率は案外と高くない。
しかし…、
私は確信できた。
私の移植した彼女の心臓は、
このまだ若い女性の胸の中で、
細胞の一つ一つが彼女となって、
長く長く鼓動を続ける。
私は手術を終えて、
初めて泣いた。
……時を少しさかのぼる。
脳死判定を待つ間…。
病室を、
彼女の大好きなヒマワリで飾った。
いつ起きてもいいように…
わかってはいる。
明らかにわかってい
る。
認めたくはない。
彼女の魂は、
もう行ってしまった。
だが、
体はそこにあった。
胸に耳を近づけると、
正確に鼓動を続ける心臓。
私は、
眠っているような彼女に何度も語りかけた。
自分なりに、
面白い冗談を考えては、
彼女の耳元で語った。
しかし、起きてはくれなかった。
やはり、私の冗談は面白くないのだ。
私が彼女の心臓を取り出す日。
とびきりの冗談を思いついた。
起きてくれるかも知れない……
……脳死は確定していた。
でも、
ベッドの上には、
私を、
私が、
愛した彼女がいる。
脳以外は全て健康に機能している。
彼女に、
完全な死を与える、
私は…
死神だ。
神と契約し、
私は、
本当に
死神になった。
死神になった経緯は、
話せば長くなる。
だから、
またいつか機会のある時に話そう。
この世界にある唯一の彼女は、
心臓だけになった。
しばらく仕事も休み、
葬儀後の雑務をした。
忙しさ、
何かをする目的。
悲しみは忘れることはなかったが、
この世界のすべてのように思っていた、
彼女を失った悲しみをまぎらわせる、
救いとなった。
移植患者の容態は、
信頼のおける同僚にお願いし、
毎日、聞いていた。
奇跡的な事に、
拒絶反応は、皆無だ。
いや、
奇跡ではない。
神が行ったこと。
当然だ。
そして、
彼女の心臓は、
彼女と一つになり、
……彼女となった。
私は、
移植した彼女に会うことはしなかった。
彼女と会ったとしても、
私の愛した彼女ではないし、
彼女が戻って来るわけでもない。
この悲しみと苦しみを、
忘れるのではなくて。
とことん、向き合って、
愛した時間と記憶ごと、
自分の一部にしようと思った。
一年など、あっと言う間に過ぎていった。
彼女のいない一年、
泣きながら過ごす時間は、
時間の流れと共に、
少しずつ短くなっていく。
泣かない私に、
私は少し寂しさを覚える。
しかし、時間とはそういうものだ。
悲しみや苦しみを癒やす効果も…
忘却ではなく、
思い出として、
形を変えてゆくものなのだ。
秋は詩人にさせる…と言われてる。
乾いた風が夏の終わりを知らせる夕暮れ。
仕事を終えて、海を望むマンションから、
焦がれて灼けた太陽が海へ沈む。
海水が蒸発しそうな夕焼けだ。
「ほら、
夜が来るよ。」
誰もいない部屋は、広い。
広い空虚に、
ひとりごとは、
誰にも聞かれないまま、
どこかへ消えてゆく。
センチメンタルな詩人は、
今夜も酒を恋人にする。
何杯目のバーボンロックだったか…?
この世界なんて、
もうどうでもいいような酔い方だ。
ドアベルが鳴る。
動くのも面倒だ。
立ち上がると、よろけて、
バーボンのボトルが転がった。
這いながら玄関へたどり着く。
なんてザマだ。
自虐も癒しになるなら、
それもまたいいか。
ドアノブにつかまりながら、
開いた。
「ただいま。」
そこには…。
彼女が笑顔で立っていた。
『ただいま』の言葉の後に、
彼女は、
あっ!
と言うような顔をした。
……彼女…。
そこにいるのは、
もちろん、
私の愛した彼女ではない。
彼女の心臓を移植した彼女だ。
『ただいま』とは、
おかしい表現…、
まぁ、いい。
酔いも手伝い、
「おかえり。」
などと、言ってみる。
彼女はフニャっとした笑顔を…。
彼女がする笑顔は、
まるで彼女そのものだ。
姿形は似ていない。
しかし…
オーラが似ている。
彼女がそこにいるような気がしてくる。
「入っていいかしら?」
案外と野太い声に、
少し心押されて、
彼女を部屋へ案内した。
「この匂い…。
やっぱりここの匂いだった…。
やっと、帰った気がするの。」
彼女は彼女がいつも座っていた右側のソファーに、
深く身を預けて、
深く息を吐き出す。
仕事を終えた彼女が、
いつもそうしていた仕草…。
軽く組んだ足の先には、
浅く履いた、
スリッパを揺らしている。
「彼女(心臓)は元気でいる?」
私の吐き出す、
酒臭い息も気にせずに、
彼女は彼女について、
話し始めた…。
「何から話たらいいのかしら…。
そうね…。
気がついたのは、
私の血管と、
彼女(心臓)が…
ううん、違うわ、
私と彼女の細胞が一つになった頃。
……ゆっくり話したいわね。
ワインもらうわよ。」
彼女は彼女のワインセラーから、
とっておきの一本を持ってきた。
初めて来た家のはずだが、
なぜ、
ワインセラーの場所を知っている?
まるで自分の家のように、
ライトのスイッチや、
グラスのある場所を知っている。
しかし、不思議と不思議には思わない。
とても自然に、
私は『許して』いる。
彼女は、
さっきの夕焼け色のワイン。
グラスに少し注いで…
「記憶って、
脳ばかりに記憶されるものじゃないみたい。
きっと、
遺伝子にも、
強い思いは記憶されるんだって思うの。
じゃなきゃ、
今の私のこの気持ちは説明できない…。
…始まりは、
夢からだったの。
知らない場所、
知らない人、
医者という知らない仕事。
いろんな夢があった。
私の夢じゃない。
違う誰かの夢。
そのうちに、
夢じゃない事に気がついたわ。
共通してるのは、
どれも、ただ一人が経験した事柄。
それを、
私は夢で経験してる。
彼女が感じた、
喜び、
悲しみ、
感じた全てを、
私…。
受け取ったの。
それは、
ごく自然に私の気持ちと一緒になった。」
彼女はワインをまた少し注いで、
話を続ける。
「彼女の最後も経験したわ。
思い…
残すこと…。
言葉だと…、
簡単ね。
そんな簡単な表現じゃ、…。
全然、足りてない。
…私も私なりに恋はしてきた。
でも、
彼女の思いは、
私がした恋なんて、
『みたい』なものだって知らされた。
彼女は、
あなたを深く愛していたの。
彼女は魂を心臓に残した。
脳が死んでしまった後も、
心臓は、
あなたの言葉を聞いていた。
それが唯一、
心臓(彼女)にできることだったの。」
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