一九四五年七月

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一九四五年七月

 まだ七月になったばかりだったが、今日もうだるような暑さだった。  地面からはゆらゆらと陽炎が立ち昇り、歩いている室町和也(むろまちかずや)は口を開くだけで水分が蒸発していきそうな気がした。  暑い夏が嫌いなわけではない。  みんなで水遊びをするのも、スイカを美味しく食べられるのも暑い夏にしかできない楽しみだった。  そしてそんな時、夏の暑さはむしろ和也に力を与えてくれていた。  だが、この数年、夏の暑さは重く暗いものに色を変えていた。  暑さは、気力を奪い、体力を奪い、思考力を奪っていった。  大人達は、不愉快そうに汗をぬぐい、些細なことで怒鳴り声をあげる。そして子供達はそんな大人達の顔色をうかがって身を縮こませる。  やっぱり、これは戦争の影響なんだろうか?   最近、和也は漠然とそう思うことがあった。  四年前に始まった米国や英国との戦争は、今もまだ続いている。この一年で、本土であっても爆撃や機銃掃射の受ける場所が増えてきた。和也が住むS村は房総の外れにある田舎町であり、軍需工場のような敵機に狙われる標的もない。だが近くの街には軍向けの石鹸を作る工場があり、最近では敵機撃墜用の高射砲が街外れに設置されたと聞く。  ここまでくると、いくら和也がまだ十二歳になったばかりの少年とはいえ、戦争について意識しないわけにはいかない。  和也は両親と三人暮らしで、郵便配達員の父親は今も召集令状を受けてはいない。ただ、村の中では赤紙によって戦地に駆り出されえた人間が、この一年でぐっと増えていた。  夏はいつの間にか、重く暗い季節へとなっていた。  そして、近くの街からS村へと疎開にやってくる子も出てきた。  今、和也の隣を歩いている花村霧子(はなむらきりこ)もその一人だった。  霧子の父親は今も街で軍に卸す石鹸を作る工場を経営している。だが、昨今の情勢を踏まえて妻と娘をS村へと移動させていた。家が和也のすぐ近くだったこともあり、学校の帰りにこうして並んで歩くことも珍しくない。  本来、国民学校初等科の六年生ともなれば男女別学になるのだが、S村では近年相次いで教師が招集されたことからの教員不足もあり、特別に男女共学が政府の役人からも黙認されていた。   「私、今夜なのよね。【天女の滝参り】」    ふいに霧子がそう言った。  暑さのせいであまり口を開きたくはなかったが、和也は何か返事をしなければいけないと思った。  村の他の少女と同じようにモンペ姿だが、霧子にはどこか垢ぬけた大人っぽさと少女らしい可憐さが共存していた。それはおかっぱ頭の他の少女と違い髪を三つ編みにしているからなのか、赤坂で芸者をしていたという母親譲りなのかは分からなかった。  霧子をすました娘だと嫌う人間も村にはいた。  ただ和也はそんな霧子のまとう空気が好きだった。それはある種の敬意に似た感情だった。 「そっか。お母さん、何か言ってた?」  霧子の母は、ついこの間まで髪にパーマをかけていたような人だ。田舎の古くからの風習などあまり気にしないように和也には思えた。 「好きにしなさいって」 「へ〜意外。ああいう風習とか迷信とか、あんまり気にするようには見えないけどな」  霧子は少し首を傾げた。  三つ編みがさらりと流れ、その様子は和也の目にとても優美に見えた。 「どうかな? この村じゃ私達は所詮余所者だし、内心どう思っていても、あんまり表立って反対はしないと思う」  霧子が「表立って反対はしない」と言ったのには理由がある。ここ最近、村の若者の中には、【天女の滝参り】を時代遅れだと言って、明確に反対する者が出てきたのだ。そのため、【天女の滝参り】の伝統を守りたがっている村の年寄り達とある種の対立状態にある。  「そういう和也君はどうなの? ああいう伝統とかって守っていきたいたち?」 「どうかな? あんまり考えたことない。それに男の僕は基本関係ないから」 「そうね」  その話題はそこまでとなった。  家の前について、別れの挨拶をして、間口をくぐると、和也はホッと一息ついた。  霧子のそばにいると、どうしても少し緊張せざるをえないことに気づいていた。 「おかえりなさい」 「ただいま」  母親の百合(ゆり)は割烹着姿で台所に立っていた。  何かおやつがあるかと和也は期待したが、百合は何も言わなかった。  ここ最近、日本全体で食料事情が良くないと父(たけし)が話していたことを思い出すと、和也はおやつをあきらめ、かわりに模型作りで時間をつぶすことにした。  以前家族で街に行った時、ある質屋の店頭でブリキでできた車の模型を見たことがあった。聞いた話では外国製とのことで、とても精巧な造りだった。同時に重量感があり、和也の目には間違いなく芸術品に映った。  もちろんそれを買うことができないのは分かっていた。和也の家は特に貧しいわけではなかったが、そのブリキ細工の車の模型は、武の給料一年分はしたからだ。  それならばいっそ自分で作ってみたらどうだろう?  和也は自分なりに見様見真似で設計図を書くと、竹を切ったり、削ったりして部品を作り出していくことにした。  手本がないので、難しい作業ではあった。ただ作業に熱中している間、部屋の中は静かだった。  父はまだ帰ってこず、母は夕飯の煮炊きに取り組んでいた。S村は街とは違い、瓦斯や電気などという便利なものはない。水道もないので、水は井戸から汲み上げるしかない。夕飯を作るのは労力がいる。  ふと和也は空気が冷たくなったのを感じた。  顔を上げて外を見ると、小雨が降り出していた。 「花村さんちの霧子さん、今夜、【天女の滝参り】でしょ?」  百合が向こうを見たまま、突然話しかけてきた。 「う、うん。そうらしい」  「ちゃんと行くんでしょ?」 「そう言ってた」 「絶対に覗いてはだめよ。他人は見ちゃいけないんだから」 「分かってる」  和也はそう答えると、また模型作りを再開したが、今度はなぜか、なかなか手が進まなかった。  集中できないことを悟ると、和也は模型作りをやめて寝転んだ。  小雨の音が心地良かった。
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