性行為

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性行為 高校の通学路の途中に小さなラブホテルがあった。 少し急な森の坂道を下ると、途端に太陽が差し込む広々した田んぼ道に出る。その道に沿うようにそのラブホテルはある。 僕はこの日も、水槽のように狭く息苦しい教室に規律正しい生活に身をやつすために自転車を漕いでいた。 夏。 木々が陽を遮ってくれることをいいことにこの坂道では、僕はいつも漕ぐのをやめて車輪の赴くままに身を任せるという、ちょっとした休憩をしている。 車輪のまわる音が大きくなる。 風が僕の髪を攫いはじめて、重い前髪もあっという間に宙に舞い上がる。汗ばんだおでこ。 やがてそのまま坂道を下れば緑のカーテンにも終わりが見えてくる。そして雲が晴れるように段々と森林の梢には無機質な白い建物と、それとは異質なほどカラフルな値段看板が見えてきた。 僕が住んでいたのは田舎ということもあって、地面が凸凹な箇所がまだまだ、というか殆どがそうであった。だからこの日、僕は自転車でちょっとした事故を起こしてしまった。事故といっても誰か他人を巻き込んだりした訳ではなく、時速20km程度のスピードで道路脇の段差に引っ掛かってしまったのである。タイヤが潰れて金属音が一瞬した後、僕が見たのは青い空だった。一瞬で視界が揺さぶられると人間は対応できないんだなとぼんやり思ったあと、じんわりじんわりと体が痛みはじめた。心音だけが聞こえる。右ひじ、右膝が特に痛い、というより熱い。バーナーで炙られているみたいだ。風が冷たい。森が揺れている。僕は怖くなる。ぶるりと背中が震える。「痛い」僕はついに口にする。普段の僕はこんなことしなかつたけれどこればっかりは例外だった。口に出せば感情は本物になる。形を持って僕の抱いた感情の証拠として世界に降り立つ。だから苦しさを誤魔化すために普段はあまり弱音を口にしないのである。けれど、この痛みはキャパオーバー。本物だとか誤魔化しだとか本当にどうでもよくなるくらいに痛かった。それから少し落ち着くと、何かが腕を滴る感覚がした。それを冷たい風が揺らしていることも鮮明にわかった。あぁ、出血しているんだなと思う。長袖の学ランを着ていたのに風を感じるのは服が破れたからか。そうやって僕は段々と自分の状況を把握しはじめる。けれどまだ体は起こせない。折れているかもしれないという不安感で僕はまだ起き上がる勇気が出ない。風が冷たい。木々のさざめきが恐い。僕はこのまま死んでしまうのかもしれないと思った。と、少し遠くでこの寂静に転がり込む石の音がした。誰か人が来たのか。僕は漠然とそう思う。ここまで書いてきたとおり、救急車だとかに縋るほどの怪我ではないことは僕自身も簡単にわかったがこのときの僕は僕を客観視してほしかった。独りである、と主張してくる苦悶する僕を取り囲んだ森に、もはや小さな社会と成り上がったこの場所に人間の意志と生命力を突き刺してやりたかった。けれど、それは違った形で現れた。坂道を下ってきた1台の車は転がる僕の横を静かに通り過ぎて、チェンソーのような激しい音を立てながら例のあの、ラブホテルの中に入っていった。白い軽自動車だった。僕は怖くなった。また間を開けて車が降りてきた。黒いアルファードだった。ホテルに入っていった。僕は悲しくなった。僕は、僕はほんとうに独りになった。性行為が命を見捨てる瞬間。僕の命はあの刹那、道端を転がる石ころに等しかった。いや、石の方が数倍は有益だった。性行為は少年の心に種を植えつけた。その日を数年経った今でも少年はよく思いだす。
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