11人が本棚に入れています
本棚に追加
34 マルセリウス・グラントの読み
アリシア=ノヴァの周囲を闇が包むと嵐が吹き荒れた。
大陸北西部、ミハエルが迷いこんだ森の遥か北西。
これはミハエルがキャスパローズと合流する同じ日の出来事になる。
▢
アリシアの視界は荒れ狂う暗闇の中に呑み込まれていた。
日が没してどれくらいの時間が立つのかもはや分からない。到着を急ごうと街道を外れ、直線で山を越えようとしたのが大きな間違いだった。
明日のサーヴァステル自治権の打ち合わせに備え、夕刻までには現地に入っておきたかった。
なによりマルセリウスと夜通し話をしたいと思っていたのだ。
早く到着せねばという焦りが裏目に出た。普通に街道をゆけば、確実に日暮れの時刻には到着していたはずなのに。
(完全に、私のミスね)
森は濃密な闇に覆われ、嵐の雨が音を立てて降り注ぐ。黒々とした樹々が壁のように立ちふさがり、枝葉が風に煽られザワワと声を上げ不気味に揺れる。
手先は冷え切って感覚が鈍り始めていた。濡れたブーツの底は滑りやすく、冷水が足指の隙間から染みてくる。
雨粒が勢いよく顔を叩き、瞼を打つたびに視界がぼやける。
稲妻が一瞬だけ景色を照らすと、ねじれた木々の影が奇妙な形を作り、森がまるで魔物の巣窟であるかのように思われる。
(必ず……明日の朝までにサーヴァステルにたどり着かないといけないの。マルセリウスが待っているんだから)
決意を打ち砕くように、強い風雨が彼女の顔に打ち付けてくる。
口の中には雨水が入り込み、鉄のような味がした。
木の幹が折れる音がひびくと同時に、体に樹木がつよく打ち付けられる。
「Fa male!(:痛い)」
咄嗟に地の言葉が出てしまう。
衝撃に森の中を吹き飛ばされ、体中を走る激痛に座り込んでしまった、それでも彼女は立ち上がる。
―――― 立ち止まる時間なんてない、必ず明日の打ち合わせに間に合うんだ
その思いだけがアリシア=ノヴァを支え、嵐の森を進み続けさせた。
しかし
ふいに足元が崩れた感覚に襲われ、気づいたときには体が落下していた。冷たい泥と木の根が頬を打ち、視界がぐるぐると闇のなかを回転する。なんども手を伸ばすが、掴めるものは泥と石しかなく、全身を斜面に打ち付けながら崖下へと落下した。
暗闇の森、崖の下。
泥水まみれの地面にうつ伏せたまま、激痛に動けずにいた。地面に横たわったまま、雨が全身を濡らし、身体中が泥水と痛みで満ちている。
腕や脚を動かしてみたが、骨が折れている様子はない。
全身をかけめぐる痛みの中に意識があり、そして命もある。しかし逆に、命がある事が今はかえって辛い。
彼女の心と体はとうに限界を超えていた。
―――― もう歩けないよ。立ち上がれない。ごめんなさい、マルセリウス……
「ゴボッ、ゴホッ」
横たわった少女の体に容赦なく雨風は打ち付けられた。さらには流れる泥水が口や鼻の中に入って来る。必死に顔をあげるが、このままでは溺れてしまう。
手足の感覚も無くなっていく。薄れていく意識のなかで、遠い昔に父親とともに試験中の飛空艇で空を翔けた夢を見た。
父と共に二人乗りの小型艇で大空を飛び回った。
急上昇、急降下。
大空の風を全身で受けた。目を大きく見開く幼いアリシア=ノヴァの横で父親は親指を立てるとニカッと笑う。
嵐。
青空がとつぜん灰色に曇ると強い風が吹き、雨粒が彼女の顔を打った。遠くでは雷鳴も聞こえる。
「大丈夫だ」
父親はアリシア=ノヴァに自身のコートを頭から被せると懐へ抱え込む。
「きゃあぁっ」
視界は真っ暗になったが、そこはとても暖かくて安心できた。
―――― 大丈夫だ
その言葉が、何処かでこだました。
風雨の音に混じってガシャガシャと足音が聞こえてきた。樹木を振り払いながら近づいて来る、どこか落ち着いた歩調の濡れた音。アリシア=ノヴァは体を動かす気力もなく、そのままぼんやりと音を聞いていた。
「ここでくたばるには、まだ早すぎるんじゃないか?」
聞き覚えのある、落ち着いた低い声。アリシアは目線をうごかす。
男。
そこにマルセリウスが立っていた。いつものダークスーツではなく、作業着みたいなセンスのない服を着ていた。
雨に濡れながらも、まばゆい光をはなつ魔導具の照明を手に、様子を見下ろしている。その表情は特に焦りもなく、さりげないものだ。
アリシアは彼を見上げた。
思わず涙がこみ上げてきそうになるが、彼女は唇を噛んでそれを堪えた。どうして彼がここにいるのか、その疑問が頭を支配した。
「貴方が……なんでここに?」
マルセリウスは肩をすくめ、少し微笑んだように見えた。彼がアリシア=ノヴァにこのような微笑みを見せるのは初めてかもしれない。
「確信してたよ……テメエがここらで倒れてるってな。夕方までに宿に来なかったからなあ。
ギリギリまで向こうで仕事をして、この嵐の中で……横着にも近道をしようとしたんだろ? 直線距離で森を抜ける。 それでハイっ、このとおり遭難だ」
このような状況なのに、ズバリと自身の行動を当てられアリシア=ノヴァは少し笑ってしまった。
「まずは崖とかの下を辿ればいい。そうやってけば、どっかにテメエが倒れてるってな」
その言葉は、特に大げさな感情もなく、ただ事実を述べているだった。
そのまま、黙って雨に濡れながら彼女に手を差し伸べた。
「立てるか? signorina(:若く素敵な女性)……」
アリシアはその手を見つめた。いつもなら「自分で立てる」と意地を張ってしまいそうなところだが、その気力すらなかった。
その手を掴む。
今は意地を張ることよりも、大事なことがあった。
マルセリウスの手は大きく、温かかった。
彼は力強く彼女を引き上げ、アリシアは彼に支えられながら立ち上がる。体はまだ痛み、雨に濡れた衣服が彼女の体に重くまとわりついていたが、それでも、マルセリウスがその体をしっかりと背負った。
「わざわざ、私を助けに来てくれたんだ……貴方が、マルセリウス」
「配下の奴らをこんな危険な嵐のなかに出せるわけが無いだろ。人間とは戦えても夜の嵐とは戦えねえ奴らだ……まあ、いまごろ俺がいなくなって大騒ぎしてるだろうがな、がっはっはっは」
アリシアはマルセリウスの言葉を聞いて、微笑みを浮かべた。嵐の中、冷え切った身体に彼の声がしみわたる。
「ありがとう、マルセリウス」
その言葉にマルセリウスは一瞬、黙り込んだが、すぐに「テメエにくたばられたら俺が困るんだ」と言い、また豪快に笑った。
マルセリウスはその後は何も言わず、アリシア=ノヴァをしっかりと背負い続けた。
夜明けが近づくにつれ、サーヴァステルの港に二人は近づく。
雨は次第に弱まり嵐の音も遠ざかっていき、朝日とともに未来への希望がちかづいていた。
最初のコメントを投稿しよう!