34 マルセリウス・グラントの読み

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34 マルセリウス・グラントの読み

 アリシア=ノヴァの周囲を闇が包むと嵐が吹き荒れた。  大陸北西部、ミハエルが迷いこんだ森の遥か北西。  これはミハエルがキャスパローズと合流する同じ日の出来事になる。  ▢  アリシアの視界は荒れ狂う暗闇の中に呑み込まれていた。  日が没してどれくらいの時間が立つのかもはや分からない。到着を急ごうと街道を外れ、直線で山を越えようとしたのが大きな間違いだった。  明日のサーヴァステル自治権の打ち合わせに備え、夕刻までには現地に入っておきたかった。  なによりマルセリウスと夜通し話をしたいと思っていたのだ。  早く到着せねばという焦りが裏目に出た。普通に街道をゆけば、確実に日暮れの時刻には到着していたはずなのに。 (完全に、私のミスね)  森は濃密な闇に覆われ、嵐の雨が音を立てて降り注ぐ。黒々とした樹々が壁のように立ちふさがり、枝葉が風に煽られザワワと声を上げ不気味に揺れる。  手先は冷え切って感覚が鈍り始めていた。濡れたブーツの底は滑りやすく、冷水が足指の隙間から染みてくる。  雨粒が勢いよく顔を叩き、瞼を打つたびに視界がぼやける。  稲妻が一瞬だけ景色を照らすと、ねじれた木々の影が奇妙な形を作り、森がまるで魔物の巣窟であるかのように思われる。  (必ず……明日の朝までにサーヴァステルにたどり着かないといけないの。マルセリウスが待っているんだから)  決意を打ち砕くように、強い風雨が彼女の顔に打ち付けてくる。  口の中には雨水が入り込み、鉄のような味がした。  木の幹が折れる音がひびくと同時に、体に樹木がつよく打ち付けられる。 「Fa male!(:痛い)」    咄嗟に地の言葉が出てしまう。  衝撃に森の中を吹き飛ばされ、体中を走る激痛に座り込んでしまった、それでも彼女は立ち上がる。  ―――― 立ち止まる時間なんてない、必ず明日の打ち合わせに間に合うんだ    その思いだけがアリシア=ノヴァを支え、嵐の森を進み続けさせた。  しかし  ふいに足元が崩れた感覚に襲われ、気づいたときには体が落下していた。冷たい泥と木の根が頬を打ち、視界がぐるぐると闇のなかを回転する。なんども手を伸ばすが、掴めるものは泥と石しかなく、全身を斜面に打ち付けながら崖下へと落下した。  暗闇の森、崖の下。  泥水まみれの地面にうつ伏せたまま、激痛に動けずにいた。地面に横たわったまま、雨が全身を濡らし、身体中が泥水と痛みで満ちている。  腕や脚を動かしてみたが、骨が折れている様子はない。  全身をかけめぐる痛みの中に意識があり、そして命もある。しかし逆に、命がある事が今はかえって辛い。  彼女の心と体はとうに限界を超えていた。    ―――― もう歩けないよ。立ち上がれない。ごめんなさい、マルセリウス……  「ゴボッ、ゴホッ」  横たわった少女の体に容赦なく雨風は打ち付けられた。さらには流れる泥水が口や鼻の中に入って来る。必死に顔をあげるが、このままでは溺れてしまう。  手足の感覚も無くなっていく。薄れていく意識のなかで、遠い昔に父親とともに試験中の飛空艇で空を翔けた夢を見た。  父と共に二人乗りの小型艇で大空を飛び回った。  急上昇、急降下。  大空の風を全身で受けた。目を大きく見開く幼いアリシア=ノヴァの横で父親は親指を立てるとニカッと笑う。  嵐。  青空がとつぜん灰色に曇ると強い風が吹き、雨粒が彼女の顔を打った。遠くでは雷鳴も聞こえる。  「大丈夫だ」  父親はアリシア=ノヴァに自身のコートを頭から被せると懐へ抱え込む。 「きゃあぁっ」  視界は真っ暗になったが、そこはとても暖かくて安心できた。  ―――― 大丈夫だ  その言葉が、何処かでこだました。    風雨の音に混じってガシャガシャと足音が聞こえてきた。樹木を振り払いながら近づいて来る、どこか落ち着いた歩調の濡れた音。アリシア=ノヴァは体を動かす気力もなく、そのままぼんやりと音を聞いていた。 「ここでくたばるには、まだ早すぎるんじゃないか?」  聞き覚えのある、落ち着いた低い声。アリシアは目線をうごかす。  男。  そこにマルセリウスが立っていた。いつものダークスーツではなく、作業着みたいなセンスのない服を着ていた。  雨に濡れながらも、まばゆい光をはなつ魔導具の照明を手に、様子を見下ろしている。その表情は特に焦りもなく、さりげないものだ。  アリシアは彼を見上げた。  思わず涙がこみ上げてきそうになるが、彼女は唇を噛んでそれを堪えた。どうして彼がここにいるのか、その疑問が頭を支配した。 「貴方が……なんでここに?」  マルセリウスは肩をすくめ、少し微笑んだように見えた。彼がアリシア=ノヴァにこのような微笑みを見せるのは初めてかもしれない。 「確信してたよ……テメエがここらで倒れてるってな。夕方までに宿に来なかったからなあ。  ギリギリまで向こうで仕事をして、この嵐の中で……横着にも近道をしようとしたんだろ? 直線距離で森を抜ける。 それでハイっ、このとおり遭難だ」  このような状況なのに、ズバリと自身の行動を当てられアリシア=ノヴァは少し笑ってしまった。  「まずは崖とかの下を辿ればいい。そうやってけば、どっかにテメエが倒れてるってな」  その言葉は、特に大げさな感情もなく、ただ事実を述べているだった。  そのまま、黙って雨に濡れながら彼女に手を差し伸べた。 「立てるか? signorina(:若く素敵な女性)……」  アリシアはその手を見つめた。いつもなら「自分で立てる」と意地を張ってしまいそうなところだが、その気力すらなかった。  その手を掴む。  今は意地を張ることよりも、大事なことがあった。  マルセリウスの手は大きく、温かかった。  彼は力強く彼女を引き上げ、アリシアは彼に支えられながら立ち上がる。体はまだ痛み、雨に濡れた衣服が彼女の体に重くまとわりついていたが、それでも、マルセリウスがその体をしっかりと背負った。 「わざわざ、私を助けに来てくれたんだ……貴方が、マルセリウス」 「配下の奴らをこんな危険な嵐のなかに出せるわけが無いだろ。人間とは戦えても夜の嵐とは戦えねえ奴らだ……まあ、いまごろ俺がいなくなって大騒ぎしてるだろうがな、がっはっはっは」  アリシアはマルセリウスの言葉を聞いて、微笑みを浮かべた。嵐の中、冷え切った身体に彼の声がしみわたる。  「ありがとう、マルセリウス」  その言葉にマルセリウスは一瞬、黙り込んだが、すぐに「テメエにくたばられたら俺が困るんだ」と言い、また豪快に笑った。  マルセリウスはその後は何も言わず、アリシア=ノヴァをしっかりと背負い続けた。  夜明けが近づくにつれ、サーヴァステルの港に二人は近づく。   雨は次第に弱まり嵐の音も遠ざかっていき、朝日とともに未来への希望がちかづいていた。  
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