38 トロティはマシロを殴る

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38 トロティはマシロを殴る

 深夜の大聖堂の中庭。  広大な敷地を持つ大聖堂の中庭には、森や噴水まである。昼間は参拝に来た信者で埋め尽くされ賑わっているが、夜は静寂に支配されている。  今は、虫の音が鳴り響くだけである。  三日月に照らされるように、俺 ―― トロティ―― とマシロは静かに見合い立っている。  この世界は月や星の光が強い。その光は彼女の美しさを何倍にも増しているように感じると、もはや眩くて目を合わせられない。  藍色のフード付きローブを脱ぎ、教会組織としての正式な白地の法衣をまとっているマシロの姿に密かに見惚れる。白く清純なその衣装は夜の闇の中でも輝きがあって良い。  俺は紺をベースとしたスーツ調の秘書官服だ。高い金を出してあつらえただけあって、デザインも、そして戦闘にも耐えうる機能性があり気に入っている。  半径一キロ以内に人がいないことは、索敵の魔導具の力でわかっている。  この人は用心深そうで、意外な所で油断する悪いクセがある。  そこはしっかりと俺がカバーしないといけないところだ。 「トロティ……よく、ここまでついてこれたわね、すぐに実家に逃げ帰るかと思っていたのに。大丈夫なの? 貴方、革命に巻き込まれているのよ?」 「革命……大丈夫って……」  俺は苦笑したくなったが、押しとどめた。 「マシロ様も人が悪い、僕が逃げ帰れないことくらい気づいていたでしょう? 革命にまで巻き込むなんて最悪な人だな」 「最初から分かっていたわよ、逃げ帰らない……いや、逃げ帰れない。貴方がホークウインド家のスパイで、私の監視をしている事くらいは」  かなり危険な話題なのだが、興味もなさげに、そしていとも簡単に言葉を返された。そう、興味もなさげにだ。  この人の―― 俺に対する興味のない態度 ―― が、ずっと前から嫌いだった。  この際だと思って、少しふてくされた態度をとってみる。 「それにしちゃ、あまりにも僕を泳がせすぎですよ、そして雑に扱いすぎ……たまったもんじゃない」  マシロの顔つきと場の空気が変わる。俺はいわゆるM体質ではないが、このキツい感じがたまらない。  ふいに風が舞う、それは青色の風に見えた。  突きが無構えの体勢から俺の顔に放たれ、更に胴への中段突き、右回し蹴りが連撃で打ち込まれる。  わずかに千切れた草が風に舞っている。  俺は体さばきのみで、すべての攻撃をかわしていた。  俺の能力を試すような攻撃ではあったが、マシロの格闘術は並みの騎士をはるかにしのぐだろう。  そしてマシロの纏う司祭長の法衣は、わずかに乱れたに過ぎない。 ―――― もっと、その法衣を乱れさせてみたいものだ  こころの中にふと欲情が湧く。その法衣の下の下着姿を何度となく見た記憶がよみがえる。  ミハエルとの未遂事件、そしてセリーナとの日常で繰り返される戯れ。  その猛り出す熱をしっかりと押さえた。 「やるじゃないの……貴方、どれだけ実力を隠していたの?」 「マシロ様だって今の連撃は本気で仕掛けていないでしょう? まあ、格闘術ではマシロ様が私より遙かに上でしょうね」  俺も、しらけたように言ってやる。 「御父上ホークウインド公爵に報告するなら、ご自由にどうぞ『聖堂騎士団長マシロに反逆の疑いあり』と」  彼女は、どことなく顎を上げて見下すかのごとき余裕の表情をうかべている。  ―――― そのような態度も好きではない、その余裕が鼻につくのだ 「やめときます。どうせ、あなたはさらに奥の手を隠し持っている」  彼女のしたたかさ、周到さにおいては恐ろしいものがある。それは執念ともいえるもので、俺が読み切れるものではなかった。 「奥の手なんてないわよ、トロティは裏切らないって信じているから。しいて言うなら、貴方が奥の手ってところかしら」  嫌な言葉をきいた。  ふいに心の中でキンッと剣が交差するような音が鳴り、苛立ちの感情が湧いて出た。 「信じている……か、奥の手か。はははっ、そんな言葉を聞きたくなかったな。大事なところで、あまりにも嘘が下手な人だ」 「嘘?」  マシロの蒼い目が、大きく見開かれた。皮肉な事に、この表情は嘘ではない。 「あなたは僕を信じているんじゃない。気づいているんだ、僕が裏切らないって」  力強くマシロを見据えた。 「あなたは気づいている、僕があなたに惚れてしまっている事を……そして、何があってもホークウインド家より、王国より、自分の未来より……マシロ・レグナードという(ひと)を選ぶってね」  トロティの拳が、わずかに震えながら握りしめられる。  冷静なマシロの表情が揺らぐのがわかる。 (信じているんじゃない、惚れている俺を利用するってことだろ。そして……)  拳に熱いものが集まってきている。 「そして、あなたは僕など相手にせず、あの男、ミハエルだけを追いかけ続けるんだ。腹立たしい」  そう言い、マシロの頬に拳を打ち込んだ。勿論本気ではない。  拳にぐちゃりとした感触があった。骨に柔らかい頬と硬い顎骨の感触。 「えっ? あっ、当たるなんて。なんで避けないんですか、マシロ様、はっ早く手当てを!」  まさか当たるとは思っていなかった。  彼女なら簡単に避けられるはずが。  口の中が切れたのか、マシロの唇から一筋の血がながれている。  白い顎をつたい胸に落ちていく血は赤い。  くすんだ彼女の表情とは真逆の、たとえようのない美しさがあった。 「そうね、ごめんなさい……嘘をついてしまいましたね。その気持ちに気づいていながら私は貴方を利用しようとしていました。この痛みは、罰として受け入れます」  流れるつづける血を見る、その拳には、まだマシロの頬の感触が残っている。  惚れた女を、なりゆきとはいえ拳で殴ってしまった。 (ど、どうして傷の手当てをしないんだよ、いつものように回復祈祷で早く治せよ)  後味が悪すぎる。これは、まずい。 「トロティ秘書官、もう帰りましょうか」  そう言い、ほんのわずかに悲しそうな表情を浮かべるマシロをみると、訳が分からなくなった。 「ああ、もうっ、どうにでもなれ! 地獄の果てでもついて行きますよ、そしてあなたを振り向かせて見せる! あなたの騎士は俺なんだっ!」  追い込まれた俺は、更に訳の分からないことを口走る、これは子供のころからそうなのだ。 「私の騎士? 期待しているわ」  マシロは目線を合わせ、表情だけで微笑む。  それでも、その作った笑顔にトロティが持った感情は複雑なものだった。  ―――― 俺は確かにスパイとしてホークウインド家から送り込まれた。そこまではあなたの読み通り  トロティの目に見えるもの、毅然とした美しいマシロの横顔。  その奥に、いつもあるのは悲しみだった。 ―――― やはり、あなたは気づいていない  ホークウインド家に、あなたへのスパイ話を持ち掛けた人物がさらに裏にいることを。  それは貴女の実の父であるグォルゲイ・レグナード公爵だというのを。   ―――― あなたは実の父君からも疑われ、監視されているのだ    地獄の戦場を駈け、腐敗した王国の深部を知る心の痛み。  その奥にある底の見えない悲しみ。  俺はいつか、それを取り除いてあげたい。
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