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「何してんの?」
それが奴に対する俺の第一声だった。
「ああ助かった、マキノ? だよね。居て良かった~!」
奴は大きく上に押し上げた窓に軽くよじ登ると、あっさりとピアノ室の中に入ってきた。
放課後、四時過ぎ。
いつものように、俺はピアノ室を占領して、好きな曲を弾き飛ばしていた。
この時期、この時間にこの部屋を使う奴はそうそういない。
コーラス部もブラスバンドも、それぞれの音楽室を使っているし、音大を目指す生徒は、この秋口には、こんな所で練習する余裕があったら、自宅で好きなだけ弾き続けるだろう。
だから俺はその時、かなり驚いたのだ。窓は外から叩かれたのだから。
ピアノ室のある三階の窓の外は、ベランダになっている。
北側の新校舎のクリームを塗ったくったようなコンクリートの壁ではないが、そこはそこなりにしっかり作られ、ベランダに出たからと言って、危険なことがそうそうある訳ではない。
だが、そこに生徒が溜まるのは、学校側としてはそう好ましいことではないらしい。
従って扉は基本的に閉まっている。通行は非常事態に限られる。
「頼むマキノ、かくまってくれ!」
そして、そんなベランダから来たクラスメートは、どうやら非常事態らしい。どうしようかな、と俺は黙って首をかしげた。
だが奴は、そんな俺の対応など気にもしないように、さっさとグランドピアノの下にもぐり、ずるずるとした黒いピアノカバーの陰に隠れた。
何から隠れているんだろう?
年季の入ったわが校を体現している、緞帳のような黒いピアノカバーを俺は眺める。俺だったら好んでこの下に隠れたくはないものだ。
やがて、扉の外から音を立てて、人のやってくる気配がした。
俺はつとめて冷静に、ピアノの続きを弾き始めた。
何となく今日は弾きたい曲があったのだ。朝、目が覚めたら、一つの曲が頭の中でぐるぐる回っていた。こういう時にはちゃんと、頭の中からその曲を出してやらなくてはならない。
がらり、と引き戸が開く。
俺は驚いて手を止めるふりをする。入り口からは、にこやかに、だけどよく通るきっぱりした声が聞こえてきた。
「お邪魔してごめんなさい。こっちに男子が一人やって来なかったかしら?」
「さあ」
俺は素気なく、それだけ言った。
彼女は一歩、中に入ると、そう広くもないピアノ室の中をぐるりと見渡した。そして、ごめんなさいね、と一言残すと立ち去った。
彼女の足音が遠ざかっていくのを見計らったように、奴の声がした。
「助かった、ありがとう」
「それはどうも」
奴はもぞもぞとピアノの下から這い出して来る。だが俺のピアノの手は止まらない。
「素気ないなあ。まあその素気なさのおかげで助かったんだけどさ。……それにしても、お前上手いなあ」
「うん?」
俺は手を止めた。
「ピアノがさ」
「ああ…… 小ちゃい頃からやってはいるから」
「へえ、すげえの」
俺は会話しながら、この妙に気さくなクラスメートが誰だったのか、記憶を探っていた。
見覚えはある。
基本、きちんきちんとした連中が中心のこの学校の生徒の中で、こんな、ネクタイをだらんと緩め、無造作に腕まくりしている奴はそういない。
クラスメートということは判る。だけど名前が思い出せない。整った顔立ち。結構人気のある奴だということは覚えているのだが。
そんな俺の様子を見て取ったのか、奴は苦笑しながら訊ねた。
「もしかしてマキノ、俺のこと、忘れた?」
「ごめん」
さすがに俺も素直にそう言う。
「覚えていてくれよなあ。クラスメートなんだからさあ。カナイだよ、カナイ」
「あ、ああ、そぉか。仮名のカナイ君だったよなあ」
「そ、仮名文字のカナイ君でもいいのよ」
「OK、記憶した」
俺は手を挙げる。
「ところでカナイ君、今君を追いかけていたのは、我らが敬愛する生徒会長ではないの?」
「俺の名知らなくとも、あいつの名は知ってるのね。悲しいわ」
うるうる、と奴は顔を手で覆い、泣き真似までしてみせる。俺は呆れて肩をすくめた。
「そりゃあ、この学校初の女子の生徒会長だったら、嫌でも覚えるだろ?」
「まあね」
奴は顔から手を外した。へらっとした笑顔がのぞいた。
「それに優等生。こないだの中間テストでもいい手ごたえとか言ってたしなあ。狙ってるのがお茶(の水)よお茶!」
「詳しいじゃないの」
「幼なじみなんよ。向こうが一つ上なんで、姉貴づらしてさあ」
奴はピアノの上に片ひじをつくと、やや気怠そうにあーあ、と声をもらした。おや、と俺は耳を澄ませた。妙に耳に飛び込んでくる声だった。
「心配してくれるのは判るのよ、だけどなあ」
カナイはそこで言葉をにごし、黙り込む。俺は再びピアノを弾き始めた。まだ曲は終わっていなかったのだ。
しばらく奴はそれを黙って聴いていたが、やがて俺のそばにまで近付くと、譜面の置いてないことに気付いたらしい。
「何って言ったっけ、その曲? 何かひどく重いけど」
「さあ、タイトルまでは。忘れた」
「そういうもの?」
「まあね。結構手が覚えてるものだし」
それは本当だった。タイトルはともかく、その曲は結構昔から練習した中にあったはずだ。だからこそ、勝手に頭の中で鳴り響くのだろう。
「ま、いいさ。とにかくかくまってくれてありがと」
「どう致しまして」
俺はひらひら、と手を振る奴に、そう返した。
カナイはピアノ室の扉を開けると、一度きょろきょろと辺りを見渡し、そしてそっと扉を閉めた。意外にデリカシイはある奴らしい。
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