太古の牢獄

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 男はゆっくりとまぶたを開ける。  体に痛みはないが、ただぼんやりとして、男の脳は思考しなかった。  薄暗い部屋のコンクリートの天井、それが男のぼやけた視界に入る唯一のものだった。  どこかに寝かされているのだろうか。全身の力が抜けている。  しばらくして、遠くの方から、かつ、かつ、かつと音がしたと思ったら、何者かが部屋に入ってきた。  そいつは男の腕を掴み持ち上げると、肩に担いだ。  男はその腑抜けた体をぐにゃりと曲げながらも、彼の薄れゆく意識に従い、再び眠りについた。  目が覚める。  意識は、いくらかはっきりとしていた。  目の前にある、真っ白な壁と、コンクリートむき出しの床。  五畳ほどの小さな部屋に、粗末な椅子と机が置かれている。  男は、壁にもたれ掛かるように座らされていた。  相変わらず、体は落ち着いている。 暑くも、寒くもなければ、精神的な安定も不思議と保たれているようであった。    しかし、男がなんとなしに首を捻ってみると、驚いて目を見開いた。  鉄格子である。  それも、壁を一面丸ごと剥ぎ取った後に、太い金属の円柱を、並列上にいくつも埋め込んだような、なんとも厳しいものであった。 鉄格子の向こう側は、全くの暗闇で、部屋の中から見るには何もわからなかった。  男はひと時の安寧が終わりを知り、ようやく、ここがどこであるかという初歩的な疑問を抱き始めた。  男は、ゆっくりと立ち上がると、おぼつかない足取りで歩きだす。 木製の机と椅子には、引き出しや、他の仕掛けがあるようには見えない。 あとは、とにかく無機質な空間である。  どうやら、先程壁にもたれかかって見たもの以外は、部屋の中に何もないようだった。 見て見ぬ振りをしたかったが、男はとうとう、覚悟を決めて鉄格子の外を覗いてみることに決める。  男は太い鉄格子に手をかけて、外を覗き込もうとした。 その時、ぱちっと小さな音と閃光がして、次の瞬間、男の指に激痛が走った。  男は叫んで、反射的に手を引っ込める。  男はその場に座り込むと、激しく鼓動する心臓を感じながら、まだひりひりと痛む指を、もう片方の手でぎゅっと握りこんでいた。   電気が通してあるのだろうか。  驚きはしたが、男は、それが致命的なものでは無かったことに、とりあえず安堵した。    しかしながら、これ以上、この場からは何も得られないのである。 男はしばらく部屋の中を意味もなく歩き回った後、周りの散策を諦めた。 その代わり、男は冷静になろうとして、目を閉じて自分の記憶を辿ってみることにした。 最も、こんな牢獄にひとり投げ込まれるようなことをした覚えはなかったが。 今、覚えているのは、名前、25歳であること、少し前に結婚した嫁、勤め先の工場、そして…。  男ははっとした。  男は、友人に誘われて冬山の登山をしたのである。 男は、友人が止めるのも聞かず、雪の降り積もった細い山道を歩いていった。  男は、これ以上は行かないという友人を、臆病者だと笑った。  しかし、男は雪に覆われて見えなかった丸い岩のうえに踏み出すと、足を捻り、そのまま体勢を崩して斜面の崖を転がり落ちていった。 体は岩にあたって跳ねながらぐるぐると回転する。 遠くで発せられた友人の怒鳴り声を聴いたのを、最後に覚えていた。  そうか。俺は死んだのだ。  男はそう確信すると、しばらく前に結婚した嫁のことが思い出されて、黯然とした気分になった。  彼女は、今頃どうしているのだろうか。  結婚したばかりの夫を亡くして悲しんでいるのだろうか。  人生の計画が狂わされたことに動揺しているのだろうか。  勝手なことをして、勝手に死んでいった夫に怒り狂っているのだろうか。 男は頭を抱えて、己の愚かさを嘆いた。  激しい吐き気を催して、何度もえづいたが、何も出なかった。  後悔と悲しみで呆然とする男の中に、これは天国であろうか、地獄であろうかというささやかな疑問が浮かび上がってきた。   恐らく、地獄であろう。  こんなにも酷いことをした人間が天国に行けるはずはないと思ったし、むしろ、罪悪感から、地獄である方がいくらか気が楽に思えた。  しかし、男は未だに、ペンチで舌を抜く閻魔大王にも、沸騰する血の池にも、死体の突き刺さった剣山にも出会っていなかった。  あるのは、ただ漠然として薄暗いこの部屋と、忌々しい鉄格子のみである。       男は、やはり壁にもたれかかっていた。 薄暗い部屋にぽつんと置かれている椅子には、どうにも座る気になれなかった。  時計もなく、動くものさえなく、どれほどの時間が経ったのか、そもそも時間の概念があるのかも分からない。    なるほど、いかにもな禍々しい拷問器具にかけるよりも、何も無い場所にいつまでも置いておいた方が、地獄の建造費も安く上がるし、長い目でみれば遥かに辛いのかもしれない。   閻魔様も、よく考えたものだ。  男はそんなことを考えてふふっと笑ってみせたが、男の心の中の不安は、次第に大きくなっていった。 その時である。 鉄格子の奥から、聞き覚えのある、かつ、かつという足音が聴こえてきた。  それも、一人では無い。  いくつもの足音が入り交じり、群れをなしてこちらへ向かってくるのがわかった。  男は、今しばらくの不安から、自分の予測が外れたことをにわかに喜び、むしろ、こちらに向かってくる集団を一目見てやろうと鉄格子に近づいた。  足音が大きくなると、鉄格子の向こう側がぱっと明るくなった。  どうやら、向こう側もまた、部屋の中の壁と同じように真っ白に塗られているようである。  男は、もしかしたら、実はなにかの手違いで、本当はまた下界に戻されるのではないかという根拠の無い希望さえ持ちはじめた。  男は、頭の中にその新妻の顔を思い描くと、高鳴る胸を抑えて、鉄格子に限界まで額を寄せ、その様相を知ろうとした。    しかし、男が覗き込んでいた方とは反対の方角から、突然、男の上に影が落ちた。        カマキリのように細長く、緑色をした体についた、やけに小さくきょろきょろとした黄色い目が、こちらを睨んでいる。   男は、なにか非常に重たいもので後頭部を殴られたような衝撃を受けた。   そのまま、息が詰まり声も出ないまま、抜けた腰を引きずって、部屋の奥の方に逃げ込んだ。 一体のみではない。  いくつもの黄色い目がこちらを食い入るように見つめて、たまに頭をぐるりと回転させては、その細長い触覚を鉄格子の奥へと突っ込むやつもいた。   男は全身の血液が沸騰するように熱くなるのを感じた。  それは経験したことの無いストレスで、男の思考の一切を奪っていった。  締め付けるような、これ以上ない頭痛が男を襲い、男は苦痛と混乱の中でそのまま動かなくなった。     「おい、あいつはもうくたばったのか。」 「すみません、館長。しかしながら、展示室に移されてからは、前回よりも長く生きたようです。」 「そうか。あいつのように、冷たいところで死んで、長いこと氷の中に閉じ込められたものしか、我々は復活させられない。君もわかっているだろうが、貴重な個体だ。」 「はい。もちろんでございます。」 「さておき、あいつを復活させることに成功してから、我が博物館の来場者数もうなぎ登りだ。」 「ええ、数百万年前に絶滅した古生物、それも我々と同じように文明を築いた種でございますから、来場者の関心も高いのでしょう。」 「まぁ、今回は仕方ない。やつのDNAの塩基配列と成長の過程における記憶は、すべて記録してある。時間はかかるが、何度でも蘇らせてやるさ。」 「はい、館長。しかし、既に5度目の蘇生で、その度にすぐに死んでいます。死因がストレスであるとするならば、生前の記憶は消した方が都合が良いのではないでしょうか。」 「駄目だ!個体そのものならともかく、成長に伴う脳神経細胞の変化、それ即ち記憶の再現に成功したのは、我が機関が初めてである。当時、やつらが生きていた環境を再現し、その生き様を展示することが、我々の目標なのだぞ。大丈夫だ。何度もやっていれば、いつか上手くいくさ。」      館長はそういうと、床に横たわっている男の亡骸を回収させ、緑色の細長い手で摘みあげると、男を再び培養液の中に漬け込んだ。  
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