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まだもうひとつ、大事なことを思い出せていなかった。 僕の名前。メイリーシアでの僕は、こんなヘンテコな名前じゃなかった。ニシ先生が、犬とか猫みたいってからかうんだ。先生が生まれた日本では、シロは犬猫用の名前なんだってさ。 キイスが僕を呼んでいるのに、なんと呼んでいるのか聞き取れない。「シロ」じゃない。キイス、もっとはっきり言って。耳元で、僕の名前…ああ、そう、もう少し… 「サイラス…サイラス・ワン…まさしくそうだ…ああ…」 胸のあたりで、誰かが顔をうずめている。黒い髪。この国の純血の人かな?いい匂いだ、婦人だろうか。いや、しかし声は低い。 あたたかい。人間のあたたかさ。泣いているのはなぜだろう。サイラス?僕はサイラスじゃない、シロだよ。パパもキイスもニシ先生もモグも、それからウォンだって、みんなそう呼ぶ。サイラスじゃ… うっすらとした意識の中で、胸にあるレオの頭を、そっと撫でる。 「サイラス……」 レオは涙を幾筋もこぼしながら、名を呼び続けた。涙を拭おうとするかのように、シロの手がレオの頬をなでる。その手を握り、レオはもう一度、彼の名を呼んだ。 きのうの夜、粉々だった紙切れが、大きな1枚のつぎはぎだらけの地図に戻った。 ところどころ破れてはいるが、読めなくはない。けどまんなかだけ穴が開いている。まだ舞っている紙ふぶき。まんなかの部分が、見つからない。他の紙切れはもういらない。ぜんぶが必要なわけじゃない。必要なことは、あとこれだけあれば、もうそれでだいたいは完成するから… 「サイラス……」 レオの声が脳の真ん中に到達した瞬間、あいまいだった夢と現実の境が、一気に開けた。まぶたを開く。ニシとモグしか居なかった病室に、何人かの気配を感じるが、よくわからない。目覚めた「サイラス」を見て、レオは泣きながら笑い、クーガも「母さん」と言って、泣くのをこらえたような顔で笑った。 クーガと…この青年は…?真っ黒な髪と、瞳の色…。僕はきっと、この子を知っている。この泣き顔。あの頃毎日遊んでいた、しっかり者で、でも甘えん坊の、あのかわいい坊やにそっくりだ… 首をわずかに動かして、部屋を見回す。 ニシと先生、モグ…それとあと、奥にももうひとり。この人は…ああ、ずっと昔、ロベルタの屋敷でほんの少しだけ見た人だ。無表情で寡黙で、何を考えているのかよくわからない、人間らしくないヤツだなって思った人。なぜ彼が?まあいい…それよりも… 瞳を動かして、もうひとりを探す。どうやらこの部屋にはいないのか?そう思った瞬間、ハッと気付いた。 ああそうか。キイスはもうとっくに死んだんだ。なぜ当たり前のようにキイスを探したのだろう。キイスは死んだじゃないか。自分で自分の頭を撃ち抜いて。いるわけない、いるわけないのに… おかしくて、サイラスも笑った。そしてレオのように、笑いながらまた泣いた。 「レオ、ああ、お前は僕の弟のようだった。幼いのにしっかり者で、でも時々甘えん坊だった。それが今や僕よりもずっと大人びた、いい男になったな」 ふたりは20年ぶりの再会を果たし、強く強く抱きしめあった。 「ろくに挨拶もできず、真夜中にあそこを発ちました。貴方との別れはつらくて、前日も言い出せなかった」 「その方がいいさ。またこうして会えてよかった。僕のことを忘れずにいてくれて嬉しいよ」 ふたりは長いあいだ抱き合っていたが、閻はその光景を感慨深く見つめていた。 ウォンのときとは大違いだ、と思った。 「レオ、僕たちはもう大人だ。運命に翻弄されていた子供じゃあない。これからはたくさん会おう。お前は僕の唯一の友達だ」 「何を言うんです。これから…これからたくさん、かけがえのない人々と出会うのです。貴方はもう誰にも気を遣わず、人として、たくさんの人々とお会いできるのです。僕もこれまでよりも、ずっと近くにいたい。いつでも会えるという約束さえあれば、この国のどこにいようとも、別れにはなりません」 「レオ…」 「いやはや、ロベルタのご一行様かと思いきや。ずいぶんと泣かせてくれるね」 モグがわざとらしく鼻をすする。 「シロ…いや、サイラスをカンペキに目覚めさせたのが、きょうはじめて会った人だったとは。メイリーシアは因縁深い土地だ。ああ、えーと、いろいろとやりそびれてしまったが…どうぞコーヒーでも。コーヒーしか飲まないんでこれしか無いですが」 ニシが閻の前にカップを置き、椅子にかけるよう促した。 「すみません、押しかけてしまったようで、ご迷惑おかけします。申し遅れましたが、私はロベルタの遠縁にあたる、閻と申します」 「ほう、ロベルタさんの…。どうもはじめまして。僕はニシです。ここの院長をやってます。こいつは助手のモグ」 「はじめまして」 モグもとなりで頭を下げる。 「貴方はこの街の方ではなさそうですね」 「ええ、ここより西の……汽車で2日はかかる街に住んでいます。休暇が取れたので、久しぶりにロベルタの顔を見に。このレオも、私と共に暮らしている者です。かつては、このサイラス氏と同郷であったようですがね」 「なるほど。遠路はるばるいらしたわけか。しかし偶然にやってきて、このようなことに巻き込まれたわけではなさそうだ」 「ええ、気まぐれに訪れたわけではありません。しかしどうやらロベルタも、正式に私達を招待したわけでもないようです。ただ、レオがサイラス氏に会いたがっていたのは本当です。彼も長らく流浪の身でしたから、またこの地にこれたことを喜んでいますよ」 「だいたいのことは、貴方がたもご存知で?」 「もはや全てですな。長々と面倒なことでしかないですが。この感動の再会が終わったら、サイラス氏にお渡ししたいものがあります。…貴方にも目を通していただきましょう。この街の、魔物の生態を研究する第一人者であるようですしね」 「そうですか。その面倒な全ては、きれいにまとまりそうですかね?」 「もともと何の意味もないことです。クーガくんの言葉を借りるなら、皆ここまで普通に暮らしてきたし、これからもこうして生きていくしかないのですからね」 ニシが、微笑みながらうなずいた。 「ただひとつ問題が…」 「なんです?」 「この手紙…ウォンさんによって、だいぶ汚れましてね。鼻血がところどころに。読めなくはないですけど、サイラス氏が怒りやしないか心配だ。なぜならこれは、彼の最愛の者からの…」
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