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「どうだい、人の温もりは」 「…はは、なんか恥ずかしいな、その言い方」 5度目のリハビリを終え、シロは診察室でニシにコーヒーを淹れてもらった。 「君がメスならもっとたやすいんだけどなあ。それか、君が異性愛者」 「子どもまで産んで今さら男にはなれねーな」 「女性にもなかなか人気があるじゃないか。女性患者たちが君を見てソワソワしてる」 「そりゃあ僕の正体を知ってるからさ」 「キイスくんはとてもいい男だったんだな。君が子どもを作ってしまうくらい」 「特異体質じゃなくたって、魔物じゃなくたって、僕はキイスが好きだよ。あの人が寛容でよかった。…お客さんの中にもさ、僕をよく思わない人の一部には、キイスにご執心だったご婦人も何人か居てね。それでちくちくと意地悪を言われたりしたものだ。でも言い返したりできないから、毎晩悔しくて悲しくてピーピー泣いてた。それでも、気にするなの一言で、いつも笑って済まされるんだ。…だから悪く言えば、キイスはあんま深く考えられない人なんだけど」 「それがキイスくんのいいところだ。私だって好きさ、ほんとにいいヤツだから。…彼の女房が君で良かったよ。いちばん幸せな判断だったと思う」 「何それ。なんか今日、恥ずかしいことばっか言うね」 バカみたい、と言いかけて、その途中でとうとうシロは顔を伏せて泣いた。満たされない心とキイスの喪失による痛みは、今なお癒されない。 「のんびり構えなよ。君たちの旬は長い。うんざりするほどね。キイスくんが生きてたら、いずれ君たちはおじいちゃんと孫みたいなコンビになってただろうな」 「ははは、そのうち見た目がクーガたちとも逆転したりして」 「ああ、それ面白いねえ」 「面白い。ははは、そうなったら、そうなったら…」 泣き笑いで、やっぱり泣くシロを、ニシがそっと抱き寄せる。 「君はまた泣き虫に戻ってきているなあ。モグが心配しているよ。何がそんなに君を悲しませてる?もう何も気負う必要ないのに。…また幸せにおなりよ。なっていいんだよ。キイスは幸せに終われた、だから次は君も幸せになるんだ。子があって、仕事があって、食うに困らない金もあって、キイスによって愛を知れた。それでも悲しむなんてバチが当たるぞ。贅沢ものはバチが当たる」 「そうだね…先生なんて奥さんに捨てられちゃったのに」 「あ、それを言うか。そうだ、それでも僕は泣いたりしないぞ」 「先生こそ、早く新しい奥さんを探せよ」 「僕の研究を理解してくれる人だね。まあ、歳でアレが使いものにならなくなるまでには…」 シロが笑って、ニシも笑った。 人の温かな感覚を忘れるなよ。茶化すような真面目なような何とも取れない顔で言われて、シロは頷く。涙を拭って、目元の赤みがひいてから、シロは買い物袋を下げて、クーガの待つ家に帰っていった。 肌にしみついたこの感覚。さっきのカタログの人間のものか、はたまたキイスによって刻まれたものか、あるいは、赤ん坊だった頃の我が子たちのものか、ロベルタに拾われたときのものか、ニシに抱きしめられたときのものか、モグに抱きしめられたときのものか。忘れられるなら忘れたい。 けれど人の体温は、一度しみつくと簡単には消えないのだ。 もっと、ずっと前から知っていたような気がする。忘れないように、ではない。忘れていたものを思い出す、といった感覚が近いような気もする。 魔物は冷たいということを、つい最近まで知らなかった。ニシが教えてくれたのだ。どんな形の者でも、全身が動物のように毛むくじゃらでも、魔物の体はヒヤリと冷たいんだそうだ。 たしかに、自分は人間よりいくらか体温が低い。ひやりと、というほどではないけれど、人間の平熱には遠く及ばない。キイスに初めて抱かれたとき、彼の肉体の温かさに驚いた。同時にキイスも自分の冷たさに身を竦めた。 ハーフのクーガたちでようやく、普通よりは多少平熱が低い、というくらいか。けれど自分以外の魔物と触れ合ったことなど、一度もない。だから知らなかった。 なぜ、知らないのか。 それは自分が魔物と暮らしていたことがないからだ。いや、正確には魔物と暮らしていた「記憶」がないからだ。 ロベルタは本当に、自分の出生を知らなかったのだろうか。一度だけそれを尋ねたことがあるが、「お前は川岸で行き倒れていたんだ。親とはぐれでもしたのだろう」と返され、ふーん、と思っただけで終わった。自分もキイスと同様、深く考えない性質である。 「ああ…頭痛い…」 考えると頭痛がする。いや、というべきか。いつもこの頭痛が邪魔をする。まるで思い出すのを阻止しようとするかのように…これ以上、深く考えられないように…。 でも最近は様子が違う。考えるのをやめられない。というより、脳が勝手にこじ開けられるように、記憶が飛び出そうとしているのを感じる。細切れの映像が紙切れのようにちらつく。見たことがない景色、覚えのない光景だが、それを知らないわけではない、まるで何度も見た夢を見ているような妙な感覚だ。 この街のように商店の建ち並ぶ賑やかな土地ではなく、山河に囲まれたのどかな村。住宅地なのだろうか、建物は三角屋根の家ばかりだ。丘があって、その下にも家々が密集しているようだが、それらは少し粗末で、丘の上と下で暮らしがきっちりと別れている、 何やら、さまざまの人たち。この大河の街のように混血が多いのだろうか。しかしどこか心が落ち着く。彼らと共にに暮らしていたのだろうか。いったいなぜ? そしてその中に、キイスがいる。数年前に死んだあのキイスではなく、自分と出会ったばかりの頃でもなく、もっと若い、青年時代の彼。 自分と知り合う前の彼を、どうして知っているのだろう。だってあの人は、僕に昔の写真なんて見せてくれなかったのに。昔の思い出は、もう要らないからって。僕や我が子や、記念の家族写真はいつも肌身離さず持っていたあの人が… 「頭痛い…」 キイスに会いたい。意地悪を言われて悲しくても、子供ができて不安になっても、僕が人間じゃなくても、微笑みながら抱きしめてくれたキイス。 でも貴方を思うたび、こんなに頭が痛むのは、なぜ?
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