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「やっぱり意味が無さそうだ。帰って着替えるくらいしか」
戻ってきた彼が持っていたのはやはりプール用タオルで、今度は無地の淡い水色のものだった。それで髪を押さえつけてみても、つけていたワックスが落ち、元々癖の強い髪質が水気のせいで顕著になりあちらこちらにくるくると巻き付く。その毛先から一瞬滴り落ちる水が止まるくらいで時間が経てばやはりどこからかまた水が落ちていってしまう。
「だったら送ります。」
渋々自分の髪を拭いていた男が、玄関先からやはり一歩も動かずそこにいて、彼を真っ直ぐに見つめた。
「送る?」
「家まで送ります。タクシーを呼びましょう。」
男は20代前半くらいだろうか。蛍光灯の強い灯りの下で見るその顔には皺もなく、ここ数年で彼が失ってしまった張りと艶がそこにはあった。そんな将来有望そうな若い男が何故か、この時間帯に雨に降られびしょ濡れになっていた冴えない男にとても親切にしようとしている。その事実を受け入れられなかった冴えない男は、口を開けて数秒間固まっていた。
「どうしてそんなことを君が?
通りすがりに傘を貸そうとしてくれただけでも有難いのに、君にそこまでしてもらう義理はないよ」
「あります」
キッパリと言い切ってしまったこの目の前の男に一瞬気圧される彼。何度か瞬きして、また口を開く。
「タクシーなら自分で呼べるから。君は傘を持って早く帰った方がいい。」
「貴方を家に送り届けるまで僕は帰るつもりはありません。」
「……心配をかけるようなことをしていたことは謝る。だけど君はただそこを通っただけの通行人だろう。そこまで僕を心配する必要はないし、もうあんなことはしないから安心してくれ。」
彼がそう告げても、男はそこを動こうとしなかった。真っ直ぐに見つめてくる瞳が時折恐ろしいほど熱烈に自分の姿を追っているように感じて、彼はもう困ってしまい思わずその男に背を向けた。
「ただの通行人ではありません。」
男は彼の背に向けてそう答えた。彼は背を向けたまま、その言葉の続きを待った。
突然雷の音が鳴り響いた。あまりに大きなそれにびくりと肩が揺れ、未だに轟音を奏で降る雨の存在を彼は思い出した。
「貴方に会いにきました。」
「貴方の雨に、傘を差しにきました。」
彼はゆっくりと振り返った。男の顔にある面影を追って、彼が大事にしまったその思い出の中の全てをゆっくりと噛み締めるように。
「志野先生」
そう男は彼の名を呼ぶ。大事に大事に口にされたそれを、彼もまた大事に大事に受け取って泣きそうな笑みを浮かべた。
「7年が経ちました。お酒を飲める歳になりました。身長はあれから20センチも伸びて、最近は髭を剃るのが面倒です。」
穏やかでそれでいて溢れ出しそうな感情を抑え込むような苦しい笑みで彼は、志野は、男を見つめている。
「覚えていますか。僕のことを」
こくり、志野は頷いた。瞬きをすれば溢れていきそうな暖かい涙をその目一杯に浮かべ、彼は口を開いた。
「久しぶり。光希。」
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