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轟音で耳に鳴り響くのは雨だった。時折雷が混じるそのうるさい雨音の中で、1人傘もささずに【志蒼館】と書かれた看板の下でぼうっと道行く車を眺めていた男がいた。
雨上がりを待っている様子もない。豪雨は彼の身体を侵食し、仕事用の濃紺のスーツはもう既に濡れていない場所などないほど水浸しだった。それでも彼は、ぺたりと顔に張り付いた前髪を軽く手で避けて視界を良くしたくらいしか動かなかった。
真っ直ぐに見つめる先は夜10時を過ぎても車通りの多い大通り。彼の表情からは今すぐにでも道路に飛び出してしまいそうな悲壮感と虚無感が見て取れた。けれど歩行者の誰も彼に話しかけることはなかった。
それもそうだろう。夜10時過ぎ、豪雨の中傘もささずに通る車を眺めて突っ立っている男にどうして話しかけられるだろうか。その上彼は30代前半の男性で、見た目も冴えず、秀でているところがあるとすれば身長くらいだが、それすらも彼のこの現状の恐ろしさを助長させるだけのものでしかなかったのである。
「…」
頬から滴り落ちた水がポツンと彼の履いている革靴に落ちた。それがもともと雨だったのか、彼の目から溢れ出たものだったのかはもう分からない。
人は何かに絶望する時、他の何かに縋りたくなる。けれど彼にはその縋るものすらなかった。全て彼の手から滑り落ち、何もなくなった彼がようやく得たその希望こそが今絶望へと変わり、彼の目の奥の光を奪ってしまったのだ。
彼はゆっくりと目を閉じた。雨の音に耳を澄まし、大きく深呼吸をする。ざぁっとノイズのように鼓膜を揺らしていたそれが、急激にクリアになっていくのがわかった。彼はその音を楽しんだ。その音に自分の心を癒す何かを感じていた。このままここで、死ぬまでこうしていよう。そう思えるほどにこの雨の音に強い力を感じていた。
絶望に満ちていたその顔がゆっくりと笑みに変わっていく。それは笑みというのにはとてもお粗末で、諦めのような心など無くなってしまった空虚な誰かが浮かべたようなもので、それでも彼はそれを自分で笑ったと表現した。自分は今笑っているのだと。
瞬間、雨音が小さくなった。閉じていた瞳にわずかに差し込んでいた街灯の灯りさえも暗く沈み、クリアに聞こえていた音がくぐもって耳に届いた。
彼はゆっくりと目を開けた。お粗末な笑みは消え、代わりに驚きで小さく開いた唇に雨が容赦なく打ちつけてきた。
「雨、降ってますよ。」
目の前に立つ男は傘を彼に傾けてそう言った。降っていることなど知っている。他に何か言うことがあるのではないだろうかと1人心の中でぼやいた彼は、少し考えた後いや何もないなと考えを改めた。この状況に見合う言葉などないのだ。彼はそう理解して目の前の男の言葉に「うん」とだけ返した。
「傘どうぞ。濡れますよ。」
男は彼の手を取ってその真っ黒な傘の柄を握らせた。呆然と他人事のようにされるがままその様子を眺めていた彼は、不意にはっとして何度か瞬きを繰り返した。
「君も、濡れるだろう」
傘を差し出した男は自分が雨に濡れることなど意に介さずそこに立っている。そうしていまさら傘をさしたところでこのびしょ濡れになった体などどうしようもない男に自分のたった一本の傘を渡してしまったのだ。
「はい。」
街灯を背にして立つ男は、その顔を夜の闇に染め表情も顔の造形すらもよく分からないほどだった。ただわかるのはその肢体の長さであり、傘を差した男のシルエットは闇の中で美しく浮かんでいた。
豪雨の中1人突っ立っていた彼の秀でたところはその背の高さと評したが、そんな彼を見下ろす男がそこにいてしまってはもう彼に残されたものが無くなってしまった。
彼は何度目かの瞬きで手の感覚を思い出し、そしてまた何度目かの瞬きで秋という季節の寒さを思い出し、何度目かの瞬きで自分が自分であるという意識を取り戻した。
「こっちへ」
そうして彼は自分のスーツのポケットを手当たり次第に探り、ジャケットの右ポケットから鍵を取り出し目の前の男を手招きした。
「ほらこっち、濡れるから」
【志蒼館】の看板を通り過ぎ、彼はその看板がさす建物前へと歩みを進めた。振り返ると男は豪雨にさらされながらゆっくりとその建物の入り口前にある階段を登ってきていた。
彼はその様子を少し止まって見つめた後、またハッと意識を取り戻して持っていた鍵でその大きな両開きのドアを開けた。
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