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着替えを待つ間、町田はゆっくりとその6畳ほどの小さな応接室を見渡していた。この狭い空間はとても見覚えのある場所だった。親との衝突も、あの志野との衝突もこの場所で起きた。彼はいつもこの位置に座って目の前で自分を諭してくる誰かの話を聞いていた。
彼は体を屈めて自分の足に両肘を置いた。真剣に見つめる先には志野がいた。今より少し皺の少ない数年前の彼が、向かいのソファから身を乗り出し町田をじっと見つめ返していた。
志野の顔は言うなれば平凡だ。世の中で言うイケメンのジャンルには勿論入らないが、かと言って顔が整っていないわけでもない。整い方がとても平均的なのだ。彼の顔に特筆すべきところが見当たらない。無理やり彼の顔を形容するのであれば、優しい顔をしている。とでも言えるだろうか。
ただこの町田という男は違った。町田自身が類稀なる整い方をしていて、特筆すべき点がいくつもあることを言っているのではなく、町田が志野のもつ優しい顔を褒める言葉を幾つも知っていることを指している。
この年上の垂れ下がった目尻は彼の心根の優しさを存分に表しているようで、それでいてその両目に光る黒い瞳は優しさの芯となる強い意志を感じさせ、目を合わせると心が洗われるような気持ちになれるし、困った時にする下がり眉も同じように彼の心を穏やかにした。笑うと彼は薄い唇をきゅっと引き結んで、大袈裟なほど口角を持ち上げる。薄桃色に色づいたその唇に少年だった彼の心がどれだけ掻き乱されたのか、この年上は知る由もない。
『君はもっと欲張りなさい。お家でそれができないのなら、僕にいくらでも我儘を言いなさい。全ては叶えてあげられないけれど、1人で抱え込むよりうんと良いことがあるから。』
そう柔らかく笑う彼に、あの時この年下は泣きそうに顔を歪めながら頷いていた。
「欲張っても良いですか?」
自分以外誰もいない部屋で1人そう呟いた町田は、少しして自分の考えを振り払うようにかぶりを振って体を起こした。
「これがあったのを思い出してね」
数分後、マグカップを二つ両手に抱えて志野は応接室に戻ってきた。カップからは多量の湯気がたちのぼり、彼の顔を覆い隠している。幾らか乾いて軽くなった前髪もまたその湯気のせいで垂れ下がってしまいそうだった。
「はい」
町田の反対側に回った志野は、真ん中の低いガラステーブルに二つのマグカップを置いた。片腕にかけていた乾いたタオルを一つソファに敷いて、その上にゆっくりと腰掛けた彼の動作ひとつひとつを町田はじっと見つめていた。
「温まるよ。」
そう言って町田の方にマグカップを一つ差し出す年上の男。町田の視線がそのカップの内側に注がれた。濃いブラウンのホットココアから湯気がたちのぼる。持ち上げると甘い匂いが鼻腔に広がり、ふうと息を吹きかけると暖かい空気が顔いっぱいに返ってきた。
「下は見当たらなかったのですか。」
ココアを一口飲んだ後、年下はマグカップをテーブルに置いてその目の前の男の姿を見た。真新しい白シャツは着替えたばかりで当然乾いており、それ以外は先ほどと変わってはいなかった。
「うん。……そもそも学習塾にそんな備えがあるわけもないんだ。シャツがあっただけマシかな。」
「寒くはないですか。そこまで僕と話がしたいのなら、そこのコンビニで僕が着替えを買ってきましょうか。」
「暖房も効いてきて寒くないよ。大丈夫。……すまない。目の前にこんなみっともない姿の男がいると気が散って話がしにくいかな。」
「みっともなくなんか…!」
言葉の綾だったのはわかっている。分かっていてもこの年下は、目の前のこの男が自分を卑下するのを許容できなかった。思わず荒げた声に目を丸くした志野に気づき、町田は開いた口をすぐに引き結んだ。
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