雨の日の再会

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 温かい空気が志野の頬を掠める。もう殆ど乾いている前髪がそれによってふわりと揺れた。 「傷心して突っ立っていただけだよ。あまり意味はないんだ。」  志野は向かい側で熱心に自分を見つめている町田に気づいて目を伏せた。 「教え子にそんなところを見られるなんて恥ずかしい限りだ。」  そう小さく笑うのを年下はただ見つめることしかできなかった。手を伸ばせば届く距離に彼がいる。あれほど焦がれ追い求めたあの人が目の前で苦しんでいるのを知っていて、それでもその手を伸ばすことはなく、触れてはいけないとその手のひらを握りしめることで自制するしかなかった。  年上が雨に降られたのは、きっとただ恋人と別れた傷のせいだけではない。それが分かっていても追求はできなかった。これ以上求めてはいけない。これ以上彼を傷つけたくはない。 「志野先生」  代わりに町田は彼の名前を呼んだ。呼ばれた彼は不意のことに顔を挙げ、不思議そうに町田を見ている。 「お願いがあります。」  そう言ってソファに座り直した彼の真剣さにまた志野は不思議そうに体を起こした。 「どうしたんだ急に。改まって言わなくても君の願いならなんでも━━━」 「ここでアルバイトをさせてください。」  町田の言葉に、志野はすぐさま顔色を変えた。 「ダメだ」  志野はこれまでの町田の全てを肯定するかのような態度を一変させた。それに抗議するように町田はテーブル手をつき体を乗り出した。 「どうしてですか。アルバイトの募集をネットで見ました。外に張り紙もあった。人手が足りていないんでしょう。」 「……アルバイトの募集はしている。けれど君はダメだ。」 「何故ですか。僕が役に立たないとでも?」  食い下がる年下に志野はどうしても首を縦に振りたくなかった。 「アルバイトならいくらでもやれる場所があるだろう。わざわざどうしてここなんだ。給料が特別高いわけでもなく、その割に仕事内容は沢山ある。……君の能力が優れているのは十分分かっているつもりだ。役に立たないなどとは思っていない。」 「だったら雇ってください。僕はここで働きたいんです。」  この年下に引き下がるつもりはなかった。彼の真っ直ぐに見つめる先には志野がいた。ここで働きたい理由など明確だった。視線の先にいる彼と共に居たかったからだ。ただそれだけの理由だった。そしてそれはこの年下にとって他の何よりも大切な理由だった。 「……ダメだ。」  一度考える素振りを見せた年上は、やはり決まり文句のようにそう言って首を振った。 「どうしてですか?」 「ダメなものはダメなんだ。君がここで働いても君にメリットはない。」 「メリットなんて必要ありません。先生、誤魔化さないでちゃんと理由を教えてください。」 「……僕が君を特別視してしまう。」  志野から弱々しく吐き出されたそれは、年下の心を揺さぶるには十分過ぎるほどの破壊力を持っていた。 「他のアルバイトと同じように扱えない。分かってくれ。僕にとって君は、どれだけ年月が経とうとも大切な存在なんだ。……本当に家族のように思っていた。今の君が聞くと少し気味が悪いかもしれないが。」  自分が特別に思われていることへの喜びと、それが決して今の自分が求めている感情ではないことへの悲しみが、同時にこの年下を襲った。   「分かりました。」  町田は志野から視線を外して小さくそう言った。納得などしていない。顔にはそう書いてある。志野もそれを分かっていて「ありがとう」と曖昧に応えるだけだった。
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