剪刀

4/6
前へ
/6ページ
次へ
 旦那様に一人残され、私は旦那様が先ほどしていたように塀をぼんやり眺めました。 この先にいる女を想っているのでしょうか。 私にはこの先には何もありません。実家は私の場所ではありません。兄がきっと大きな顔をしています。妹たちもそのうちいなくなります。友人たちも、もう嫁いでいるでしょう。私には誰もおりません。何もないのです。私がもしいなくなっても誰にも影響がないといえるでしょう。所詮、子の産めぬ腹。私の価値は、誰とも知れぬ余所の女が子を宿すようであれば、それ以下。長男の嫁でありながら跡継ぎを残せないのなら、意味がないと誰もが思っています。  風が肌に突き刺さるようです。寒さで体は悴み、鈍っていくようです。心は荒涼としています。腰痛も肩凝りも悪化します。 どれか一つでも軽くなれば心も楽になるでしょう。しかしどうしても今の暮らしでは凝りに凝った肩を解す術がありません。溜め息を吐き、自分で自分の肩を揉みました。足下に視線が降りました。枯れ枝の様だ、と思いました。着物の裾が捲れていたのでした。みすぼらしい。私が男だったとしたら枯れ枝と添う手しまったのかと悲しくなるでしょう。  やはり原因は私自身なのですね。と、私自身に問うても正解は出てきません。旦那様、答えてくださいませ。そうなのですか。旦那様はお先にお食事を召し上がっているでしょう。私はなぜここで震えているのでしょう。今すぐにでも母屋に乗り込んで喚き散らかしてしまいたい。私の中にこのような衝動があったことが驚きです。お母さまのように清廉に生きたかったのに。私にあるのは悪鬼の如き不徳義な心です。  私は再び深呼吸をします。そうなれば私に待っているのは三行半です。たとえそうでなかったとしても、冷ややかな目が一層厳しくなるだけだと知っています。せめてもの理性で私は衝動に打ち勝ちます。そろそろ私もお食事をとりましょうか。せっかく炊いたご飯も冷めてしまいそうです。  ご飯を食べても体の中に栄養として蓄えられない気がします。口に入れているのになかなか飲み込めないのです。噛むことも出来ない。口に含んだだけで吐き気が催してきます。唾液だけが溢れてきます。どれも味がしないのです。それなのにお腹が空くのが困りものです。私がまずそうに食べているとまた何か言われてしまいます。かといって美味しそうに食べても何か言われるのでしょうが。私に必要なのは演技をすること。良き妻を演じるのです。 私の脳裏にはいつも母がいます。尊敬するお母様。どんなに内面が悪鬼のようでもそうと悟られなければ良いのです。思考はいつも同じ道を辿ります。恐らく入り口が狭いのでしょう。私の凝り固まった頭は視野を狭め、私の首を絞めます。 一口ずつ、ゆっくりと口に運んでは咀嚼する。そう、その繰り返しをすればいいだけです。今朝私は何を作ったのでしょう。全く記憶にありません。でもこれを食べても旦那様が怒り出すようなことがなかったことを思えばそう不味くもないようです。何を食べても苦く感じるのは胃から上がってくるもののせいでしょう。  しばらくして、旦那様がお仕事に行かれるために私は玄関にてお見送りをします。旦那様は私から帽子を受けてとると、静かに頷いたようでした。  その途端、私の中に寂寞とした風が吹き抜けました。  去って行ってしまう、旦那様。その背中。お仕事が終わったらきっとその足で、女の元へ行かれるんでしょう。お願いですから私をもっと労ってください。旦那様が一言二言声を掛けてくれさえすれば報われるのに。なぜそうも頑なに私には口を閉ざすのですか。声を上げて泣いてしまいたい。地団駄を踏んで幼子のように暴れてしまいたい。私は良き妻でいなくてはいけない。こんなことを考える私はきっとおかしいのです。あゝ、それでも。  どうか今すぐ全て壊れてしまえば良いのに。  私はその場に膝をついて崩れ落ちました。体が言うことを聞かないのです。口を押えましたが間に合わず、先ほどやっとの思いで胃に収めたものが口から溢れました。玄関先だけではなく、たたきまで汚れてしまいます。苦しい。腹の中全てが爛れているようです。私の中の悪鬼。浄化されなさい。普段から私は祈らない。だからでしょうか。これは仏罰、それとも天罰でしょうか。  鼻の奥がつんと痛みます。舌の上には苦さと酸っぱさが入り混じっています。そのまま。私はそれをまき散らし続けました。固形物が出なくても、液体すら口から出なくなっても私は吐き続けました。それでも、私の中には黒い靄がありました。浄化されきれないのです。私は絶望しました。今からやらねばいけないことはたくさんあるのに。私が長らく玄関にいることを不審に思ったのか、お義母様が私を呼んでいる声が聞こえました。そうして蹲っている私を見つけたのです。お義母様は私に駆け寄り、何事かと訊ねましたが私は答えられませんでした。えずくのが止まらないのです。  
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

1人が本棚に入れています
本棚に追加