剪刀

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 こんなにも大切にされているものがあるのに、余所の女の元に通うのですね。旦那様の大切なものの中に私も入りたかっただけなのに。  私は、ただもっと学びたかった。お父様が良しとされませんでした。子供たちに交じって走り回りたかった。ある時を境にそれは許されなくなりました。  何か、大切なものになりたかっただけ。  私が大切にしているものを守りたかっただけ。  特別な人の、特別になってみたかった。  分不相応。  誰もが夢見る寝物語。それでも。憧れるのは仕方ないではありませんか。こんなに生きていくだけで辛いだなんて。  手当たり次第に物を手に取っては投げました。筆や墨壺。文机に手が触れたとき、柔らかい感触がありました。手に取ったそれは旦那様の綿入れでした。私が仕立てたものです。  膝の力が抜け、その場に座り込みました。  寒くないようにとしっかりと縫い付けた私の針の癖がまるわかりです。刺繍は見事なのになぜ縫い物にはこんなに癖が出るのでしょうと母に苦笑されたことがありました。  ただ、寒いからと云う理由かもしれません。  それでも。それだけの理由だとしても。なぜ涙が溢れてくるのでしょう。綿入れを胸に掻き抱きました。  これはどういう感情なのでしょう。  涙の意味がわかりません。  声を上げて泣きました。こんなに声を上げたのはいつ以来か、わかりません。しかし私は何も考えずただ綿入れを抱きしめて泣いていたのです。  私の中にはたくさんのものが渦巻いていました。この感情を言語化することは出来ません。私はあまりに無知でございました。  ひとしきり泣いたので綿入れが心なしか先ほどよりも重くなっているようでした。  それでも、心は晴れないのでした。  私の衝動は行き場がなくなり押し殺されてしまいます。それがひどく苦しいのです。  文机の上に光るものを見つけました。剪刀でした。紙を裁つのに用いたのでしょう。それが無性に目につきました。まるで魅入られたかのように私は剪刀(はさみ)に手を伸ばしました。  先ほどまで大事に、大切に掻き抱いていた綿入れに、私は剪刀を入れました。  ゆっくり。  中の綿が見えます。  袷はたやすく切れますが、綿がなかなか剪刀を拒みます。少しずつ切り進めます。ゆっくり。ゆっくり。  息苦しさが薄れていくようです。私の体のいたる所に住み着いた悪鬼が少しずつ浄化されていくのです。  旦那様を想い、私は剪刀を進めました。 また、涙が溢れてきました。これは先ほどのものとは異なります。  あゝ、私は今満たされているのです。  私はこの瞬間だけで良いのです。この瞬間だけでこの先如何様なことがあっても生きていける気がします。  もっと異なる形でこの気持ちを知ることが出来たのなら、もしかしたら旦那様と円満に生きることが出来たのやもしれません。しかし私はそれを見つけられませんでした。  剪刀は正直に私の望むままに切り裂いていきます。  私は今まさに欲望に忠実な人間でありました。  私はもう二度と人間として生まれ変わることは出来ないでしょう。畜生道に落ちようとも私は、一度きりの人間を全うするのです。
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