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三代山。
聞いたことないでしょう? まぁ山の名前なんて、よっぽど有名じゃなきゃ聞いても記憶になんて残らんでしょうが。
私もね、現地の案内人に教えられて初めて知ったんですよ。会社を辞めた勢いでの旅行だから、そもそも周囲の下調べなんてしてませんでしたしね。
えぇ、辞めてやったんです。休暇を取った日に退職届を郵送してね。自分ばかり苦労してるのが馬鹿馬鹿しくなったんですよ。サボってばかりの連中に全部押し付けてやりましたよ。向こうは単なる長期休暇だと思い込んで、楽しんできてね、だなんて呑気な顔をして……二十年以上前のことなのに今でもはっきり思い出せますよ。きっと苦労しただろうなぁ、あははは……。
……あぁ、そうそう。その山の奥に、案内にも載っていない秘湯がある、というので、こりゃあ是が非でも、と思ったわけです。
黒い山でしたよ。周りと比べて、木々の緑が一段と濃いんです。それで遠くから見ると黒に見えてたんですね。当時は曇天でしたから、なおさら黒く、暗く見えて、とても不気味でした。奥から大、中、小と、そんな山が三つ連なっている。だから三代山、というのだとか。温泉は三つ目…一番奥の山にあるとのことでした。
登山の経験はありませんし、そもそも観光目的の軽装だったので不安でしたが、幸いにも獣道とはいえ、ある程度の足場は確保されていると教えられました。それに山の中を突っ切るわけじゃなく、側面をなぞるように進むから、思ったよりも早く、楽に越えられるとも。
旅館から土産物市を抜けると、登山者に向けた道路があるんですがね。そこの脇に逸れた小さな道があるんです。そこを行くと、噂の山に辿り着きました。
足を踏み入れてみると、土は少しぬかるんでいました。深い緑が日光を遮るものだから、他の山に比べて湿気が飛びづらいんだそうです。
当時は夏真っ盛りとはいえ、曇天の朝五時で、おまけに日の当たらない山の中だ。少しは涼しいんじゃないかと思いましたがね、甘かった。むしろ昼間に溜まった山の中の熱が、熱を貯め込んだ黒い木々に遮られて逃げないんですよ。それが湿気と混ざって、実に不愉快な蒸し暑さを作るんです。しかも曇天なもんだから、やたら暗くてね。森の景色に目を凝らす気にもなれません。
そんな中です。不意に開けた場所に出たんですね。左右が木々に囲まれていたのが、土砂崩れでもあったように、左側の木だけが無くなってたんです。
そこからはあと二つの山脈を拝むことが出来てね、鴉みたいな黒さはそのままでしたが、間近で見るとまぁ、それなりに綺麗でしたよ。僅かですが風もありました。晴天ならもっと良かったでしょうに。
そこで思い出したんです。案内人によると、三代山は山彦がよく響くそうです。
連なっている山脈の配置が絶妙で、一番手前の低い山からでもしっかり聞こえるんですって。何より不思議なのは、自分が立つ山によって聞こえ方が変わるのだとか。
こりゃあ都合がいいと思いましてね、早速声をあげてみたんです。やっほーって。そしたらね……。
山彦は響きませんでした。何の音も、反響しなかったんです。音自体が、空に吸い込まれていくようでした。
これはおかしいと何度か試したんですがね、同じです。全く何の反響もない。
案内人に担がれたかとも思いましたがね。何の変哲もない山彦だ、というならともかく、響きすらしないんですから。よく見ると、奥にある二つの山にも、同じように土砂崩れのような跡があるのがわかりました。山彦を試す場であると同時に、ちょうどいい目印になると思いましたね。
二つ目の山に入った頃には六時を回った頃合いでした。
えぇ、よく覚えてますよ。部下からの電話が入ってきましたから。無視してやりましたがね。いやぁとにかく腹の立つ奴だったんですよ。入ってきてすぐに私が彼の教育係を請け負ったんですがね。酒も飲まない、タバコも吸わない。おまけにこっちが金を貸せ、と言っても頑なに首を縦に振らない。普通ねぇ、上司と仲良くするなら、それくらいはやって然るべきだと思いますよ。ねぇ?
はい? ……あぁ、そうそう。その話でしたな。
山一つを脚で越えるのに一時間。通常初心者が登山にかける時間で三〜四時間といいますから、まぁやはり山登りというより、単なる散歩道なんでしょうな。脚もまだまだ動きましたが、それでも蒸し暑さでだいぶ参ってしまいましたね。二つ目の山の土砂崩れ跡で、少し休憩することにしたんです。
休憩がてら、そこで「おーい」と声を上げてみると、
——おーい……
今度は確かに響きました。えぇ、それがね、奇妙だったんですよ。
ほら、ふつう山彦って、何回も重なって響くでしょう? やっほー、やっほー……って。ところがね、そいつは違った。
一回だけなんですよ。てんで繰り返しゃしない。ほんとに遠くから誰かが呼んでるんじゃないか、って思いましたね。何度かやってみましたけど同じだ。答えるのは一度だけ。
成程、確かにこれは不思議な山彦だ。ですが、何か妙だ。響いてくる山彦に違和感がある。けれどそれがわからない。
こうなったら三つ目ではどんな山彦になるのか、誰だって気になるでしょう? 休憩もそこそこに、すぐに出発しましたよ。
二つ目の山も越えて、三つ目の山の土砂崩れの場所に着いた時刻は七時過ぎでした。
日は確かに登っています。厚い雲の模様が、わずかばかりくっきりと見えていましたから。けれど、やはり視界はスッキリしない。
三つ目の山は一番高くてね、自分の立つ高度は変わらないはずなんですが、視界の先からは、残り二つを緩やかに見下ろしているような気分でした。
そこで改めて、山彦を試してみました。
——おーい……
と声が返ってくる。今度も一回だけ。それがね、今度はえらくはっきりと聞こえたんです。より大きな音……というか、大きな声だったんですな。そして、それを聞いてわかったんです。
声がね、違うんですよ。
反響してるからどうとか、そう言うんじゃない。明らかに私の声じゃないんです。もっと歳の言った老人の、しわがれた声でしたよ。えぇ、間違いない。
それに気付いてから、なんだか気味が悪くてね。山彦は止めて、さっさと先へ進みました。
嫌な気分でしたよ。携帯を開いたら上司……あぁ、元上司、ですな。そいつからメールが入っていて、余計に気分が滅入りました。
こいつもまた人を苛立たせる奴でね、とにかく私のやることに文句をつけるんです。
サーフィンが趣味らしいんですが、やれ男なら運動の一つも出来なきゃダメだの、何かにつけて掃除をしろだの……私は清掃員として雇われてるんじゃないんですよ? 自分の価値観を押し付けるようなことはしないで欲しいですよね。
……っと、失礼。そう、気味が悪かったんです。だからさっさと目的地に辿り着きたかった。
ですが、一度違和感に気付くと、芋づる式に他の部分にも気が付くものでしてね。いや、気になってはいたけれど、目を逸らしていた、というべきか。
山の中に生き物の気配がないんです。動物はおろか、虫さえも。近くの石を裏返したり、木を蹴っ飛ばしたりして見ましたが、何も出て来やしない。
そこまで行くと、流石に怖くなりましてね。もう必死に足を進めました。秘湯の地まで行けば、誰かいるんじゃないかと期待したんですよ。
道は途中からモロに山の中へ向かってましたが、もうヤケクソだ。突っ込んでいきましたとも。
森の中は洞窟を通るくらいに暗く、じめっとしていました。その癖足音も吐息も、闇に吸い込まれていく。一心不乱に獣道を駆けて行きました。何しろ無我夢中でしたから、どれくらいそうしていたでしょうか。闇に続いていくだけの獣道の先から、水の音が聞こえてくるんです。
そりゃあ安心しましたよ。目的地はすぐそこだ、と言われてるようなものですから。
ふらついた脚に力を込めて、走り続けて、走って、走った先……ようやく辿り着いたんです。
申し訳程度の水がちょろちょろと流れてるだけの岩場にね。
温泉は、枯れていたんですよ。
そしてその前に、三人の女性が立っていて、息を切らせている私にこう言ったんです。
私達は、この三代山の精霊です……と。
「……精霊、ですか?」
「そう、精霊です」
訊ね返した私の声が萎えたものになっているのにも気付かず、老人は弾んだ声で話を続けた。
「彼女達が言うには、三代山は長い間生きている中で、すっかりその力が衰えてしまったんだそうです。秘湯が枯れるのみならず、木々の彩りも暗く、虫や動物さえも寄りつかない、暗い山になってしまった。だから一時的に力を溜め込むべく、私に力を貸して欲しい、と言うんですよ。自分達が再び秘湯を湧かせ、動物達を呼び戻せるようになるまで、身代わりになってはくれないか、とね」
既に、私の興味は、この老人の話からは離れつつあった。とっておきの怪綺談だというから、病院で会った彼の誘いに乗ったと言うのに。これでは怪談ではなく御伽噺だ。
「私も以前の勤め先ですっかり疲弊した身でしたからね。彼女達の気持ちはよくわかりました。だから引き受けたんですよ。おそらく他にも何人かいたのでしょう。会ったことはありませんが、あの山彦はそう言うわけだったんですな」
老人は、この精神病院に通う患者の一人だった。
元々勝手な性格で、会社とのトラブルが絶えず、近所との諍いも続いていたという。そんな彼が二十年前から、奇妙な症状を晒すようになった。本人は自らの正気を主張したが、身内から引きずられるようにこの病院へ連れ込まれ、以来ずっと通い詰めなのだと言う。
この病院の医者に紹介されて話を聞いてみたが、記事にするような面白みのある話ではなかった。医者側も、同じ話を聞き続けて辟易としていたのだろう。
「秘湯が復活した暁には、礼をするとも言われましたよ。いやぁ、まるで笠地蔵だ。周りは私がついにおかしくなった、と言ってこんな病院に押し込みますがね。とんでもない、私は至って正気ですとも。しかしそうか、あれからもう二十年も経つんですね、早いものだ……っと、噂をすれば、だ。ちょっと失礼。いやぁなにせ、私の担当は最初の山でね。出番の多いこと……」
老人は私の相槌も待たずに話を切り上げて立ち上がると、中庭の中心に立ち、空を見上げた。そして大きく息を吸い込むと、他の人たちの視線も気にせずに叫んだ。
「やっほーーー……!」
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