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ぴりっ、とした痛みに一気に眠気が飛んだ。
「あ」
次の瞬間、じわりと肌に赤い血が滲み出てくる。どうやらホッチキスの先に指先を引っかけたようだった。
「あー、またぁ、何やってるんですか」
ぷくりと盛り上がった血を眺めていると呆れた声が飛んできた。横からさっとティッシュを一枚差し出される。
「悪い」
「気をつけて下さいよ、先輩不器用なんだから」
「そんなことないだろ」
「あるでしょ、何回指怪我してるんですか」
ほぼ毎日でしょ。
自分の指先を見て、千鶴は反論出来ずに黙り込んだ。確かによく怪我をする。今日はこれで二度目だ。
「…すみません」
「絆創膏自分で巻けます?」
あのさあ、と千鶴は後輩に顔を顰めた。
「それくらい出来るって」
「ほんとですかあ?」
「俺を馬鹿にすんな」
というより絆創膏なんて大袈裟だ。こんな小さな傷なのに。しかし自分の血を作業しているものに付けるわけにはいかないので、千鶴は指先にティッシュを巻き付けたまま、渋々上着の内ポケットを探った。
あった。
取り出した名刺入れを開く。内側にいつも一枚だけ忍ばせている絆創膏を引っ張り出す。怪我ばかりしているから常備しておけと後輩や同僚にさんざん言われ仕方なしに入れていた。本当に怪我ばかりするのだ。
したくてしているわけでは、勿論ないが。
「…よし」
絆創膏を巻いた手を開き、具合を確かめた。パソコン作業に支障がないか、開いては閉じて確認する。
「あ、ちゃんと巻けてるじゃないですか」
「うるさい遠藤」
「成長しましたよねーちょっとよれてますけど」
「うるさいって」
まあ前は絆創膏も巻けませんでしたもんね、と遠藤はにやりと笑う。可愛い顔をしているのに口は達者で物怖じしないのは褒められるところだが、千鶴のことを全く先輩扱いしないのが癪に障る。
「いいからほら、残りの貸せよ。手伝うから」
向かい合って座る遠藤に絆創膏を巻いたばかりの手のひらを差し出すと、遠藤は結構とばかりに手を振った。
「いいです。自分で出来ますし、先輩にやってもらうと二度手間なので」
そう言って遠藤は千鶴のデスクからホッチキスを取り上げた。
それはたった今千鶴の指先を傷つけたホッチキスだ。机の上に積み上げられたそれを手伝おうとした途端、打ち損ねたホッチキスの針で指先を切ったのだった。
遠藤が無駄のない動きで資料を机の上で揃えていく。
「いいからもう時間ですよ、早く召集に行ってきてくださいよ」
ぱちん、とホッチキスを打ちながら、呆れた顔で遠藤は千鶴の腕時計を顎で指した。
***
「──というわけで、我が社のこれからを考えるとき、既存の考えを捨て新たな挑戦をすることは欠かせないと考えております。そこで立ち上げるのが新しいこのプロジェクト──」
二階上の大会議室のスクリーンの前で、六十代の男性社員が自信に満ちた声で言った。他人を軽く威圧する雰囲気。彼は和久井と言い、企画開発課の課長だ。数年前他社から引き抜かれてここに来たと聞いた。
ブラインドが下ろされ、照明の落ちた室内には二十人ほどが座っている。皆彼の言う『新しいプロジェクト』の為に集められた社員たちだ。
千鶴もそのうちのひとりだった。
会社は二年程前から業績が落ち込み悪化の一途をたどっている。これ以上の下落を防ぐため、上層部は和久井を中心に据え、去年の冬、新しい事業計画を立ち上げた。本格的に始動を始めるのは来年の春。このプロジェクトに参加し、研修を受けて来いと千鶴が上司に命令されたのは今から一ヶ月程前のことだ。
『は?、…俺ですか?』
ああ、と上司は頷いた。
『候補者リストがあってな、その中からひとり選ぶように言われたんだが、俺は三苫が適任だと思うよ』
『はあ…』
俺が?
『まあ推薦でもあるし、しっかり頼むな』
ぽん、と気軽に肩を叩いてくる上司の笑顔を思い出して、千鶴は内心でため息を吐いた。
誰だよ俺を推薦なんかしたの。
新プロジェクトとか業績を上げるとか、そんなのはっきりいって興味がない。そつなくこなして仕事もそこそこ出来ればいいし、平穏に、無事に日々を送っていたい。ただ面倒なだけだ。
会社の命運なんて…
「どうでもいいって…」
そうなる前に辞めればいいし、きっとそうする。
会社に固執はしていない。
そうなんだけど。
「……」
「それでは、明日から研修を開始しますが、それに加わるメンバーを大阪支店からも呼んでおりますので、ここでご紹介します」
和久井の言葉で千鶴は我に返った。内容を全然聞いていなかったが、大阪、と言う言葉に耳が反応した。
まさか…
一気に嫌な予感がした。
和久井が会議室のドアを見る。開いたそこから入って来た二人の男にざあっと血の気が引いていく。
千鶴のこめかみが引き攣れた。
嘘だろ。
ひとりはよく知る顔だった。
和久井がその男の肩を叩いて笑った。
「えー、ご存じの方もいるでしょうが、改めてご紹介します」
室内が軽い笑いに包まれる。
先程までの緊張とは真逆に、アットホームな雰囲気が会議室に満ちた。
冗談じゃない。
冗談じゃ…
後で入って来た男が先にマイクを持った。
「お久しぶりです皆さん、大阪から出戻って来ましたー、営業一課の時枝です」
おお、と声が上がった。待ってたぞ、というヤジが飛び交う。和やかな空気とは裏腹に、千鶴は膝の上できつく手を握りしめた。
「…っ」
なんで。
「研修の結果次第ですが、もしかしたらまたこちらでお世話になると思います。どうぞよろしくお願いします」
拍手が起きる中、時枝はもうひとりにマイクを渡した。その目が一瞬こちらに流れ千鶴を見た。
「──」
息を詰め、千鶴は身を固くする。
絶対、顔を見ては駄目だ。
視線を外し俯いて躱す。
「……っ」
挨拶が終わり、ふたりは壇上を下りた。用意された席に案内されるのを聞き、ようやく千鶴は顔を上げた。
くそ、なんだって、あいつが。
「どうした三苫?」
隣に座っていた社員が千鶴に声を掛けてきた。
「な、ん…、何でもないです」
そうか、と言った彼は、思い出したようにああ、と続けた。
「おまえ時枝と仲良かったよな」
「え…」
「良かったじゃないか、こっちに来て」
「……そ」
自分の顔が奇妙に引き攣れるのを感じた。だが千鶴は精一杯の笑顔を作り、そうですね、と返した。
視界の端に時枝の姿がある。彼がこちらを見ている気配に、気のせいだと言い聞かせ千鶴は会話を続けた。
定時を大幅に過ぎてから、千鶴はようやくPCの画面を落とした。本当はもう少しやっておきたいところだが、今日はもう限界だ。ここまでと決めておかなければいつまでも際限がない。
終わらない仕事。営業三課は一課ほど営業の花形ではなく内向きの業務が多い。書類作成は嫌いではないが、外回りとの合間では絶対的に時間が足りない。
要領が悪いのだろうと自分では思っている。
「お疲れ様です」
まだちらほらと残っている同僚に声を掛けると、おつかれーと間延びした返事が返ってきた。フロアを出てエレベーターのボタンを押し、やって来るのを待つ。腕時計を見れば、もう二十一時を過ぎている。
本当はもっと早くに帰るはずだった。
これではまた課長に残業しすぎだと怒られてしまう。会社としては定時帰宅を推奨しており、過度な残業は出来るだけして欲しくないのだ。
理想はそうだ。でも現実はそうじゃない。
でも、それでも終わらない仕事はどうしたらいい?
明日からは研修だというのに──
「……はあ」
エレベーターの扉が開いた。中に乗り込み、一階のボタンを押した。誰もいない箱は静かに一階へと動き出す。
壁に寄りかかり、ひと息吐いた。
考えても仕方のないことは一旦忘れることにする。
エレベーターが一階に着いた。
ぽん、と軽快な音とともに扉が開く。千鶴はスマホを取り出して歩き出した。とりあえず腹が減った。何か食べて幸せな気持ちになりたい。昼を食べてから何も口にしていない。いい加減腹が空きすぎて倒れそうだ。
「なんにしよう」
この空腹を満たしてくれるのは、やはり手っ取り早いチェーン店かファストフード店か。
「でも飽きたしなあ…」
最近まともなものを食べてない。スマホの画面をスクロールしつつ、帰り道に寄れそうな定食屋を探していく。ここもあそこも、行ったところばかりだ。
たまには違うものが食べたい。
こつこつ、と革靴の音が響く。
誰もいない吹き抜けのエントランス。
大理石の床。
夜勤の警備員に頭を下げ、自動ドアをふたつくぐって外に出る。
思いのほか冷たい空気に千鶴はスマホから顔を上げた。
う、と息が止まった。
「──」
会社の前の通り、歩道のガードレール脇に立っていた男が、にこりと笑ってゆっくりと近づいてくる。
「お疲れ、三苫先輩」
三苫先輩。
くそ。
微笑む時枝に千鶴は舌打ちした。まさかいるなんて。召集の後和久井たちと出て行ったから、てっきりもう帰ったと思っていた。
千鶴はどうもと会釈だけ返して横を通り過ぎた。話すことはない。だがその瞬間肩を掴まれ強引に振り向かされた。
「な──」
振り仰いだ時枝はしてやったとばかりに笑っている。その顔にカッと頭に血が上った。
どの面を下げて──
その手を思いきり叩き落とすと、自分より上背がある時枝を千鶴はきつく睨み上げた。
「──何?」
「…──」
払われた自分の手を眺めていた時枝は、何事もなかったかのようににっこりと笑った。
「久しぶり」
「……」
「元気だった?」
元気?
「俺に会えて嬉しい?」
「は?」
何言ってんのこいつ。
「俺は…」
「ふざけんなよ!」
吐き捨てて背を向けた。
「ありえねえ…!」
オフィス街の通りは、この時間でもまだ人が多く行き交っている。声を上げた千鶴を何事かと通り過ぎる人たちが振り返っていく。千鶴は構わず、彼らを避け大股で駅までの道を急いだ。背中に強く感じる視線は、きっと気のせいではない。
「──」
角を曲がる瞬間、遠くに時枝が見えた。
さっきと同じ場所からこちらを見ている。
ぎゅう、と胸の内側が痛む。
どうして、どうして、あんなことを言うのか。
両手を握りしめる。手のひらに爪がきつく食い込む。
嬉しい?
嬉しいってなんだ?
おまえに会えて?
俺がそんな顔をしてたとでも?
一瞬でも──
(そんなわけないだろ)
冗談じゃない。
もう顔なんか見たくなかったのに。
この先一生、会わずに済むと思っていたのに。
(…そんなわけないのにな)
冷たい風に煽られ、少し冷静になる。
深く息を吐き、それはないと思った。
同じ会社にいる時点で可能性はいくらでもあった。支社と本社であるとはいえ、無理なことだ。今回のようにどうしたってその機会は来る。それならあのとき辞めておけばよかったのだ。
でもそうしなかった。
しなかったのは自分なのだ。
「……くそっ…!」
しばらくは我慢するしかない。
研修が終わるまで。
千鶴はもう一度深く息を吐き、流れていく人込みに乗って駅の改札を通った。
食欲は既に失せていた。
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