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「あれー先輩」
フロアに入ったとたん声を掛けられた。目を向けると遠藤がこちらを見て手を振っていた。目敏い、と千鶴は顔を顰めた。
「どうしたんですか? まだ研修中ですよね」
「ちょっと物を取りに来ただけだよ」
「ふうーん」
そうですか、と頷いて遠藤はそのまま千鶴の前を通り過ぎ、さっさと奥のドアから出て行った。また大量の資料を抱えていて、内勤ばかりしていたのだろうと千鶴はため息をついた。
「…、と」
デスクに行き、鍵を開ける。私物が入った引き出しを引っ掻き回して目当てのものを探し始めた。
「おう三苫、なにやってんの」
振り向くと同僚の緒方が千鶴を見下ろしていた。
「足りないもの取りに来たんだよ」
「研修あと何日?」
「んー…」
あの日の翌実から始まった研修は今日で四日目だ。研修期間はたっぷりと十日もあって、まだ六日を残している。
あと六日…
思わず眉間に皺を寄せた千鶴に、緒方は同情の目を剥けた。
「大変だな」
「まあ…」
大変なことに変わりはないが、仕事上普段直接関わることのない人たちと同じ場所にいるというのはなかなか刺激があり、新しい発見もある。知らなかったことを知っていくのは楽しい。理解が深まれば喜びも感じる。千鶴は元々ガリ勉タイプの人間だった。中学と高校は割と有名な進学校に通っていたのだ。
「大変、じゃないけど」
「そうか? 疲れてねえ?」
「あー…そう?」
そう見えたならそうかもしれない。
実際神経を擦り減らせてはいた。わずらわしい事さえなければ、それほどではないのだが。
「そうかも」
引き出しの奥に目当てのものを見つけ、千鶴はそれを取り出した。やっぱりここにあったのか。家の中を探しても見つからないから、少し焦っていたのだ。
よかった。
そうだ、と緒方は千弦の肩を叩いた。
「あのさ三苫の担当の大村さん、今朝連絡来てて、オレが対応してるんだけど」
「あー課長から聞いた」
研修中は通常業務が出来ないため、引継ぎ説明をした上で担当取引先からの連絡は部署内で分担してもらうことになっている。それぞれへの割り振りは課長がしたと聞いていた。
大村は千鶴が受け持つ営業先のひとつ、個人経営の飲食店の社長だ。都内に五店舗経営していてなかなかの癖者だった。
「でさ、この後オレそこ行くんだよな。なんかいいとっかかりっつーか、話題とかある?」
「話題? あー…」
目を上げると、緒方の眉は八の字に下がっていた。いつも溌溂として勝気な緒方にしては珍しい。
そして千弦の顔を見て深くため息を吐いた。
「知らんやつがいきなり代打で行っても盛り上がりそうなやつ」
「ああ…」
確かに自分が同じ立場だったら困るだろう。顧客の中には担当者以外の者が行くと冷たくあしらう人もいる。話に上がっている大村も実際そのタイプだった。
いらぬ負担をかけているようで申し訳ないが、これはどうしようもない。んー、と千鶴は思いつくままを言った。
「あの人野球好きだよ」
「お、野球? どこの」
九州のプロ野球チームの名前を告げると、緒方はそれならいける、と表情を明るくした。
そういえば緒方の出身は九州だ。
「昨日試合あったから、調べとくといいかも」
「あーそういやあったな…! ありがとう、助かるわ」
「こっちこそ悪いな、押し付けてさ」
片手でスマホを取り出しながら緒方はにやりと片方の口端を上げた。
「いいから研修頑張れ、課長が期待してたぞ」
「俺に? するだけ無駄だよ」
思いきり顔を顰めると、緒方は声を上げて笑った。
「いい機会だろ、人脈広げてこいよ」
「…人脈ねえ」
「おまえ客受けは抜群なのに社内の交流は広がらないよな」
「悪かったな」
確かにそうだが。
あ、と緒方が思い出したように言った。
「そう時枝! 帰って来たんだろ? 研修チームにいるって聞いたわ。昨日連絡来たし、なんで教えてくれなかったんだよ」
「あー……、ああ」
緩慢に千鶴は返事をする。そうだ、緒方は時枝と親しかったっけ。
思い出したくもない顔を思い出してしまい、千鶴は天井を仰ぎたくなった。
「忘れてた」
「大事なこと忘れるなよ」
何が大事だ。
全然大事なことではない。
(むしろ忘れたいんだけど)
大きくため息を吐くとポケットの中のスマホが震えた。取り出して見れば、メッセージの通知だった。
「なに?」
「……あー、連絡」
送信者は時枝だ。
どこにいる?と訊いてくる。そろそろ始まる時間だった。
千鶴は立ち上がり、引き出しに鍵をかけた。
「じゃ、俺行くわ」
「頑張れ」
「またな」
緒方に手を上げて営業三課を出た。ドアを閉じる瞬間、遠くにいる遠藤がちらりと見えた。そのまま千鶴は階段に向かう。エレベーターを待つよりも早いからだ。
階段を上がりかけたとき、またスマホが震えた。
しつこいな。
小さくため息を吐くと、今度は取り出すこともせずに階段を上がった。
「遅くなりました」
ミーティングルームに入ると、千鶴以外の全員が既に集まっていた。
「じゃあ揃ったので始めましょう」
人数分用意された椅子の空席はひとつ、時枝の後ろだった。仕方がないと諦め、千鶴は音を立てないようにそこに座った。スマホの電源を落とし、タブレットとメモ帳を並べる。スマホでメモを取るほうが効率は良さそうだが、千鶴は自分で書く方がよかった。ポケットからペンを取り出し、かちりとノックした。
「さて、この統計ですが、社内で統括するデータを…」
外部から招いたという専門家がスクリーンに映し出された映像を指し示す。慣れない言葉の列に溺れそうになるが、理解していかないといけない。まずは頭に叩き込むところから──覚えのある感覚に懐かしくなる。
昔もこうやっていたっけ。
「──、ぁ」
思わず千鶴は声を上げ、はっと口を塞いだ。
しまった。
講師が言葉を止めこちらを向いた。
ちらちらと周りから目を剥けられいたたまれなくなる。
「どうしました?」
いえ、と千鶴は慌てて首を振った。
「なんでもありません、失礼しました」
「そうですか。…えー、そしてこの──」
全員の意識が自分から離れて、千鶴はほっと胸を撫で下ろした。
まずい。
(…またかよ俺)
咄嗟に握り込んでいた右手をゆっくりと開く。親指に赤い線が走っていた。
またやってしまった。
メモ帳を捲ろうとして紙で切ったのだ。どうしてこうも怪我ばかりするのか、本当に自分でも嫌になる。千鶴はポケットからハンカチを取り出して軽く拭い、今度こそ講義に集中した。
「じゃあいったんここで──、ちょっと休憩にしましょう。再会は二十分後に」
きりのいいところで講師がそう言うと、全員がほっと息を吐いた。始まってからもう一時間半が過ぎていた。
講師が部屋を出ていくと、談笑が始まった。ミーティングルームの奥に用意されている小さなドリンクカウンターに皆吸い寄せられるように向かって行く。連れ立って外に出ていくのは、喫煙者達だろう。
千鶴も軽く体を伸ばし目頭を揉み解した。集中したことによる軽い疲労で頭がぼうっとする。俺も何か飲もうかな。
何か甘いもの。
「はい、先輩」
立ち上がろうとしたとき、目の前に紙コップを差し出された。ふわりと湯気の立つ、甘い香り。
「好きでしたよね、これ」
見上げれば、得意そうに時枝が笑っていた。
中身はココアだ。
千鶴の好きな。
「……なんで?」
「? なんでって?」
「…」
「どうぞ」
一瞬暴力的な想像をして、ここでは出来ないと千鶴はそれを受け取った。
「…………どうも」
温かい。
じっと見下ろされ、気まずくなる。渡したならあっちに行けばいいのに時枝は動かない。
飲むまで行かない気なのか。
「どうしました?」
「……」
仕方なしに千鶴は口を付けた。
甘いココアが口の中に広がる。ちょうどいい甘さ、疲れが一気に消える気がして、美味しい、と思わず口に出てしまった。
「よかった」
と時枝が言った。
「好きなもの変わってないんだ」
「……」
千鶴は無視してココアを飲んだ。
「おまえさ、…」
「はい」
「いちいちあんなに送ってくるなよ」
「何を?」
「メールだよ、あれ社内メールだぞ」
千鶴は顔を顰めた。あれは社内用のメールだ。社員同士で使うのはもちろんいいのだが、あんなことでメールを頻繁に送られては大事な連絡などが埋もれてしまうし、何より千鶴はああいうことをされるのが嫌いだった。そのことは時枝も知っているはずだ。
「ああ、あれ?」
首を傾げて聞いていた時枝はにっこりと笑った。
「だってあれは先輩が…」
「時枝!」
おーい、と呼ぶ声に時枝が振り返った。千鶴もその視線を追いかける少し離れたところで話していた四、五人の社員がこちらに向き、ひとりが手招きをしていた。
「はい」
「おまえちょっと大阪の話聞かせろよ」
「ちょっとこっちこい」
「はあ? なんでですかあ?」
関西のイントネーションでおどけて時枝が返すと、何人かがわっと笑った。何がそんなに可笑しいのか、昔から男女問わず年齢問わず人を惹きつける時枝の周りはいつも賑やかだ。
「じゃあ、またあとで」
笑いながらそう言うと、時枝は千鶴の傍から離れていった。
そのとたん体から力が抜けていく。時枝相手に無意識に緊張してしまう自分に腹が立った。
「…最悪」
あとでなんてあるわけない。
ムカつきながらココアを飲み干すと、ふと紙コップを持つ手が目に入った。さっき切った親指に、かすかに血が滲んでいた。
今のうちに絆創膏巻いとくか。
名刺入れから一枚取り出して指に巻き付ける。
舌先に残る甘いココア。
「あいつ変わらないなあ、時枝」
近くにいた先輩が盛り上がる人だかりを顎で指し、肩を竦めた。
「そうですね」
本当に変わってない。
あれから二年も経つのに。
何も──何ひとつ。
いつも当たり前のように言い切る。
『好きなもの変わってないんだ』
三年前のあのときもそうだった。
『先輩』
『ん?』
『千鶴先輩』
残業中、ふたりきりしかいないフロアで後ろから呼ばれた。
普段言われないその呼び方に、何だろうと千鶴は何気なく振り返った。
何も考えず。
だが、時枝は息が止まるかと思うほど近くにいた。振り向いた千鶴の目をじっと覗き込んでくる。
『な、に…』
『俺の事…好きだよね?』
頬に掛かる吐息。
時枝、と言いかけた唇を塞ぎ、自信たっぷりな笑顔でそう囁いた。
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