二月十四日 -夏目ルイ-

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二月十四日 -夏目ルイ-

 大学の期末試験が終わると同時に始まった春休み。今年はのんびり遊んではいられない。着慣れないリクルートスーツと資料がたくさん入った鞄を早く放り投げたくて、わたしの足は街灯で照らされた住宅街を急かされるように歩いていた。アパートのドアを開けるとひんやりとした空気が身体を包み、その住まいに誰もいないことを知る。ああ、姉は今日はアルバイトか。適当に靴を脱ぎ、荷物を廊下に置くとリビングのエアコンのスイッチを入れた。ふとテーブルに目をやると、無造作に紙袋が置かれている。鮮やかな配色が可愛らしい紙袋の中には、この時期らしくチョコレートが三個入っていた。それを眺めて、しばし思考を巡らせる。自分が置いたわけでもないし、このアパートにはわたしと姉しか住んでいない。これまで姉がバレンタインにチョコレートを用意しているのを見たこともない。……しかし、わたしが用意したわけではないのだから、姉が用意したことになる。そうでなければ、不法侵入してチョコレートをプレゼントしていく妙な人間がいることになってしまう。姉が用意したのだとしたらそれもとても驚くことだが、それを前提として、三個のチョコレートを見つめた。正方形のブルーの箱に英字がデザインされているもの、これはおそらくアルバイト先の店長、つまり伯父へ渡す義理チョコだろう。もう一つも見るからに義理チョコ。子どもが大好きな茶色いとぐろ状の形の容器に小さなチョコレートがたくさん入っている。これは同じくアルバイト先の、秋山くんという人へのものと推測できる。そして最後に、長方形のピンクの箱に細いリボンが掛けられたチョコレート。これはきっと、わたしへのもの。多分、本命チョコ。  わたしはここでやっと一息ついて、ソファへ腰を下ろした。姉がわたしにチョコレートを用意してくれているであろうことが嬉しい。そう、嬉しい。しかし、嬉しいだけではない。少し複雑な気持ちだった。  姉が見ている世界はわたしとは違うらしく、人の顔は両目が空洞だったり、麺を食べようと思えば髪の毛だったり、シャワーを浴びれば血液のように真っ赤だったり、そんなふうに見えていて、それが「いつものこと」だという。そんな姉が唯一、美しいと思うもの、それがわたしだとも言っていた。金色のオーラをまとっているのだと。  しかし、昨年の春に我が家に迷い込んできた黒猫をきっかけに変化が起こり始めた。飼い主に愛され、伸びやかに自由に生きる気ままな猫の姿が美しく見えたそうだ。世の中には、自分が知らないだけで美しいものがまだまだたくさんあると気づくことができたと。それから姉は以前よりも外出することが増えたし、アルバイト先の二人に関しては、きちんと両目が嵌まっていることも増えたらしい。今回のチョコレートはきっと、そんな変化がもたらしたもの。わたし以外の人間とも円滑にコミュニケーションを取ることができるようになったことで、世の中が大々的に盛り上げるようなイベントにも参加する気持ちになったのだろう。この変化は喜ばしいことだ。それは伯父をとおして両親にも伝わっているらしく、最近、わたしに様子を伺う連絡が入るようになった。  いつか全員の顔がきちんと見られるようになったら、わたしやほかのみんなと同じように周りのものが見られるようになったら、わたしは姉の特別ではなくなるのだろうか。わたしもただの妹になるのだろうか。それとも……わたしだけが、空っぽの目になってしまうのだろうか。  ガチャリ、と鍵の開く音がしてハッとした。姉が帰って来たようだ。急いで、それでもできるだけ静かに廊下に置いた荷物の元へ向かった。わたしが荷物を持ったところで、靴を脱いだ姉と顔を合わせることになった。セーフだ。 「おかえり、お姉ちゃん」 「ただいま。ルイのほうが早かったね」  姉は顔の下半分が隠れるように黒いマフラーを巻き、厚手のコートに身を包んでいる。コートの下から細い両足が伸びていて、上半身とのアンバランスさが面白い。雪だるまに足が生えたような格好だなと思った。 「なに、なんか変?」 「ううん、お姉ちゃんが可愛いなと思って」 「え、え、どういうこと」  外の寒さのせいなのか、それともわたしが発した言葉のせいなのか、頬と耳を赤らめている姉をそのままに、自室へ入った。わたしの荷物には、おそらく気づいていない。鞄はいくら見られてもいいが、この紙袋の中身は明日まで内緒にしておきたい。ほとんど義理に近いチョコレートと本命チョコがそれぞれ一個ずつと、たくさんの友チョコが入った紙袋を小さなガラステーブルの上に置いた。 「ルイ、今日ピザ買って来ちゃったからそれで夕飯にしよう」  部屋の外から姉の声がした。 「うん、ありがとう。着替えたらすぐ行くね」  そう返事をして、まとめていた髪の毛を解いた。  リビングへ行くと、部屋着姿の姉がソファで待っていた。テーブルの上にはチョコレートが入った紙袋の代わりにピザの箱が置かれ、焼き上がって間もない食欲を誘う香りが漂っている。 「美味しそうな匂い」 「あったかいうちに食べよ」 「わたし、ビール飲んじゃおうかな。お姉ちゃんはなにか飲む?」 「これがあるから大丈夫」  姉はそう言って、ピザの箱の隣に置かれているビニール袋からペットボトルを一本、取り出した。 「ピザにビールってなかなかジャンキーだなと思ったけど、コーラも負けてないね」 「でもこれ、シュガーレスだから」 「罪悪感ゼロのやつだ」 「そう」  冷蔵庫から取り出した缶ビールを手に、姉の隣に座る。それを合図に姉がピザを開封し始めた。ハーブやトマトソース、チーズの香りと別に、姉のシャンプーの香りがする。同じものを使っているのに、どうしてこんなにいい香りだと感じるのだろうといつも思う。 「乾杯する?」 「いいね」  就職活動を始めるにあたり、わたしは染めていた髪の毛を黒色に戻した。 「乾杯」 「乾杯」  大学生になってすぐに茶髪にしたので、姉と同じ黒髪になったのは久しぶりだった。 「録画してたやつ観る?」 「うん」  美容室から帰った姿を姉に見せると、なんだか懐かしいとわたしの髪の毛を触ってくれた。 「これ、食べきれるかな」 「残ったら明日も食べちゃおうよ」  頭に置かれた姉の手の重さや、毛先を撫でた細い指先が肩や背中に触れるのが心地良かった。 「どれにしよっかなあ……」  わたしに触れてほしい。 「……あ」  気持ちが伝わってしまったかのように、お互いの指先がぶつかった。 「同じの選んじゃったね」 「お姉ちゃん食べていいよ」 「ちょっと待って」  姉は一切れのピザを二つに割くと、大きなほうをわたしにくれた。名残惜しそうに伸びたチーズが途中で切れて、一切れは完全に二切れになる。 「ルイ、チーズいっぱいのやつ好きでしょ」 「うん、ありがとう」 「じゃ、いただきまーす」 「いただきます」  わたしのほうから姉を求めてはいけない。姉が変わり始めた今、本当の気持ちを知られてはいけない。わたしはただ、姉に求められ、受け入れるだけの女神でいなければいけない。 「ここのピザ美味しいね」 「うん、また食べよ」 「あれ……ルイ、どうしたの」 「え?」 「なんか涙目」 「ああ、タバスコかけすぎちゃったの」 「泣くほどかけたの!? 大丈夫?」 「大丈夫、ありがと」  一枚のピザの上で溶け合って一塊になったチーズは、わたしに依存する姉みたいだった。それが今、離れて、どこかへ行こうとしている。もう一つじゃない。二つに、なってしまう。    ――つらいのをタバスコのせいにして、少しだけ泣いた。 ♦︎♦︎♦︎  先にシャワーを済ませ、まだソファにいる姉に声を掛けた。 「お姉ちゃんもそろそろお風呂入ったら? もう十二時過ぎてるよ」  わたしの声を聞いてくるりと振り返った姉は、なんだかいつもと様子が違う。恥ずかしそうに、言いたいことがあるけれど言い出せないような、緊張した様子だった。 「どうしたの?」 「えっと、ルイは人気者だから、きっとたくさんチョコもらうんだろうなと思って、だから、はい、これ」  わたしのほうへ伸ばした両手には、細いリボンが掛けられているピンクの箱が載っていた。 「一番にあげたいと思って」  顔を赤らめて話す姉が愛おしくて、わたしだけのものにしたいという想いが溢れてしまいそうだった。大好きな人からもらうチョコレートが、こんなにも嬉しいとは思っていなかった。 「ありがとう、嬉しい」  わたしがチョコレートを受け取ると、姉の表情がぱっと明るくなった。わたしのことを考えながら選んでくれたのだとわかる。 「ちょっと待ってて」  自室に戻り、たくさんのチョコレートが入った紙袋から一つを取り出した。専門店で悩みに悩んで購入した高級チョコレートだ。それを持ってリビングで待つ姉の元へ向かう。  いつか姉を本当に幸せにできる人が現れるだろう。わたしが女神のままでいたら、それは幸せの邪魔でしかない。姉を祝福できる、ただの妹でいなければならないのだ。 「お姉ちゃん、これ、わたしから」  姉はいつ気づくだろうか。神聖化し、簡単に触れることのできなくなってしまった穢れのない妹のその首筋や内腿に、他人の痕がついているということに。 「大好きだよ」  わたしはただの、妹に、ならなければいけない。   終
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