四月一日 -夏目レイ-

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四月一日 -夏目レイ-

 瞼の内側がぼんやりと明るくなっていることに気づき、わたしは目を覚ました。スマートフォンの画面を確認すると、四月一日の午前十時と表示されている。道理で明るいわけだ。カーテンの隙間から、春の柔らかな陽射しが漏れている。  ベッドから降りてぺたぺたとキッチンへ行く。適当なコップを手に水道の蛇口をひねると、真っ赤な水が流れ出た。いつものことだ。コップにその水を汲み、一気に飲み干す。味は普通の水だ。普通の水の味がなんなのか、よくわからないが。  次に洗面台へ移動して顔を洗う。両手をお椀のようにして水を溜めると、うぞうぞと小さな芋虫がわいてくる。これもいつものことだ。そのまま芋虫に顔を突っ込むと、水音がして冷たく滑らかな感覚がある。顔を上げたときには芋虫はいなくなっていた。  リビングの中央に置かれている二人がけのソファに座り、特に見たい番組があるわけでもないがテレビをつけた。朝の情報番組がまだ流れている。テレビに映るアナウンサーや芸能人は、目がないので表情がいまいちわからない。両目があるはずの部分が真っ暗な空洞になっているのだ。これもいつものことで、気にはならない。  ぼうっと眺めていると、後ろから声をかけられた。 「おはよう、お姉ちゃん。今、起きたの?」  妹のルイが立っていた。ピンクとホワイトのベビードールに身を包んでいる。ルイが動くと春らしい色合いのシフォンが(つや)やかに揺れた。 「おはよ。ルイもまだそんな格好じゃん。今、起きたんじゃないの?」 「着替えてないだけ。お姉ちゃんよりは早く起きたよ。昨日、飲み会だったからまだ身体がだるくて」 「ああ、そうだったね」  ルイはソファにかけてあったカーディガンを羽織るとわたしの隣に座った。いろんな友人から飲み会に誘われているらしいが、最近二十歳になったばかりでそんなにお酒がおいしく飲めるものなんだろうか。わたしはまったく飲まないからわからない。  ルイはわたしと違って昔から人気者だ。明るい性格で笑顔も可愛らしい。わたしとは正反対だと思う。大学生になったとき髪を茶色に染めてパーマもかけて、ルイのふんわりした雰囲気がより引き立つようになった。  横にいるルイを見ると、窓から入り込む陽射しで髪がきらきら輝いている。ルイは優しい金色に光るオーラをまとっていて、わたしの知る世界で唯一、美しい。 「ねえ、ルイ、どうしてわたしと一緒に住むことにしたの」 「ん? 前も言ったじゃん。お姉ちゃんのこと……」  ルイが言い終える前に唇でふさいでしまった。答えはわかっている。ルイはわたしを好きだ。それが恋愛感情か、単に姉としてなのかは定かでないが、そこまで聞くのはこわい。  キスをしたまま、左手でルイのふわふわした髪を撫でる。右手は肩にかかっているカーディガンをするりと下に落とす。ルイは拒まず、されるがままになっている。  こういうことをするようになってから、ちょうど一年になる。初めてキスをした日、わたしには世界がどんなふうに見えているかをルイに話した。エイプリルフールだからなにかの冗談だと思ったらしいが、ルイはわたしを信じて受け入れてくれた。そういうルイの優しさに甘えて、今もこうしている。  唇を離すと、耳や首を喰むようにキスをした。ルイがときどき、くすぐったがってふふっと笑ったり、ぴくりと小さく身体を動かした。わたしの両手はルイの腕や背中を這っている。すべすべした肌が気持ちいい。  第一志望大学の受験に失敗して、わたしの人生は終わりだと思った。滑り止めで合格していた大学をすべて蹴って、結局、進学せずに就職した。  しかし長続きせず、今はフリーター生活をしている。そのせいで両親とは気まずくなって、家を出ることにした。世界が変な風に見えるようになったのも受験に失敗してからだ。  わたしが家を出るときルイはちょうど大学進学のタイミングだったから、両親にはそれを理由にして一緒に住み始めた。あとからどうして一緒に住むことにしたのかを聞いたとき、お姉ちゃんが好きだからだよと言ってくれた。定職に就かず、アルバイト以外はほとんど外出せず、友人もいないわたしなんかを好きと言ってくれるルイは神々しく輝いていた。  左手でベビードール越しに柔らかな胸に触れ、ルイの顔を見ると、目を閉じて少し頬を赤らめていた。甘い吐息が漏れている。その顔を見ながら右手をショーツにかける。手を滑り込ませようとしたとき、急に吐き気をもよおした。  勢いよくルイから離れ、駆け足でトイレへ向かうと便器のなかへ吐き出した。朝食を摂っていないため、胃酸ばかりが出て口のなかが痛いほど酸っぱい。  ルイがコップに水を汲んで追いかけてきてくれた。わたしの口に水を含ませて「大丈夫?」と心配してくれる。 「うん、ごめん。ごめん、ルイ。わたし、ルイを穢してしまうところだった」  吐き気は自分への嫌悪感からくるもので、いつものことだった。いつもこのタイミングで、先に進めない。わたしの身体が先に進んではいけないと言っているのかもしれない。わたしなんかがこれ以上ルイに触れたら、ルイが穢れてしまう。ルイの両目も空洞になって、顔がわからなくなってしまうかもしれない。ルイのことが好きだから、それは嫌だった。 「立てる?」 「うん、ありがとう」 「はい、これ使って」  ルイからタオルを受け取ると、口周りといつの間にか流れていた涙を拭いた。 「リビングに戻ろうか。ブランチしよ!」  ルイがわたしを元気づけるように言ってくれた。  リビングに戻り、ソファに座ろうとするとしかしそこには先客がいた。  思わず叫ぶ。 「えっ! ルイ! 猫! 猫がいる! えっ!? どうして!?」  わたしの動揺する姿がおかしかったのか、ルイがトースターに食パンを並べながら笑いだす。ひとしきり笑ったあと、わけを教えてくれた。どうやら開いていた窓の隙間から迷い込んだらしい。全身真っ黒で、ツヤツヤしたいい毛並みだ。赤い首輪をしているのでおそらく飼い猫なのだろう。 「あ、ここに名前と連絡先が書いてある」  首輪にはネームプレートがついており、飼い主と思われる人物の電話番号も書いてあった。 「moon……。ムーンちゃんっていうのかな」 「そうみたい。今朝、飼い主さんに連絡したよ。今夜おうちに帰してあげることになったの。その電話のあと二度寝しちゃって、今にいたる」  きっと飼い主は心配しているだろうに、ムーンはのんきに毛づくろいをしている。人に慣れているから警戒心が薄いのだろうか。知らない場所なのに。ルイがムーンを抱き上げても、嫌がる素振りはない。黒猫を抱くルイを見て、もし女神が実在したらこんな感じなのかと考えた。  女神がムーンを撫でながら伏し目がちにわたしに言う。 「お姉ちゃん、今日ってバイトだっけ? もし早く終われそうなら、飼い主さんに会うとき一緒に行こうよ」 「うん、バイトだけど大丈夫。残業になりそうだったら秋山くんに任せる」 「秋山くんって人もバイトだよね? 本当に大丈夫?」 「うん、いつもいろいろ代わってもらってる」 「伯父さんに怒られない程度にサボってよー?」  伯父さんというのは、文字通り母方の伯父のことだ。今は伯父が店長を務める小さな書店でアルバイトしている。両親は伯父を通してわたしの生存確認をしているわけだ。ルイとは直接やりとりしていると思うが。  そのとき、チンッとトースターが高い音を出し、食パンが焼けたことを知らせた。パンの芳ばしくて食欲をそそる香りがキッチンからリビングまで漂ってくる。 「お姉ちゃん、はちみつとジャムどっちにする?」 「ああ、いいよ。自分でやる」  いちごジャムを冷蔵庫から取り出してパンに塗る。ジャムは泥のような色をしていた。キッチンに立ったまま食パンをかじり、ムーンを見ると、またソファに丸くなっていた。ほわほわと金色に光るオーラをまとっている。 「ねえ、うちにいる間だけ、別の名前つけちゃ駄目かな」  果物を切っているルイに尋ねる。ルイは笑いながら駄目と言った。 「お姉ちゃん、ムーンのこと気に入っちゃったの?」 「うん、きれい」  ルイは少し驚いたあと、にっこり笑ってそうだねと頷いた。  大丈夫、問題ない。まだ終わりじゃない。  わたしは丸まっているムーンを見つめながら、心のなかで何度も言葉を繰り返していた。 終
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