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「毎年こうやって、質の悪い探偵がひっかかるんだから、うちの人の女好きもなかなか役に立っているわ」
なんだと。夫の浮気がわかっていてオレに依頼したというのか。なにが目的だ。
今回の依頼人はおかしなことばかりだ。強請ってもあわてない。怒りもしない。怯えもない。さらにはわけのわからないことを口走る。
話の主導権を上手くにぎれず、どうにも居心地が悪い。仕切り直しが必要だ。いったん、帰るとするか。脅しのネタは、オレの手の中にある。焦る必要はないんだ。
座布団から腰を上げようとしたら、あれ、体が動かないぞ。
「うちはね、鎌倉時代から大狒狒さまに生贄を捧げてきたのよ。人をひとり、あとくされなく消す手練手管をたくさん持っている。あなたみたいなチンケな悪人とは格が違うのよ」
コーヒーカップを持ち上げ、女神主が笑った。くそっ、一服盛りやがったな。
「大狒狒さまは、これから冬ごもりの支度に入られる。雪の季節を越えるために、人間の精気が必要なのです」
うす暗い中で光る女の目は、沼に映った月に似ていた。
「ドジを踏んだら、消されるような危険な仕事もしょっちゅうなんでしょ。あなたがいなくなっても、誰も心配しない。いろいろ調べたのよ、あなたのことは」
赤く塗った唇の端が鎌の形を作り、女の頬を裂く。
「名探偵が生け贄になってくれるおかげで、来年もこの神社は安泰ね。依頼主を強請るような悪いやつがいなくなって、町の平和も保たれることだし。これも大狒狒さまのご利益だわ」
お山の神さま、大狒狒さま。悪をお諫めくださいまし。民に富をくださいまし。お山の神さま、大狒狒さま。悪を……。
笑みを含んだ声で、女神主は祝詞をあげる。ゆったりとした上衣を揺らせ、大きな仕草で舞う。かすれる視界のすみで、紫のそでがひらりと空を撫でた。
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