おかえり

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『おかえり』  よい朝だ。パンプスを履いてドアを開ける。わたしはカーテンを引いた仄暗い部屋に向かって「おかえり」といい、鍵を締める。 「おかえり」 「ただいまです」 「おかえりです」後輩の隣のデスクに着く。「餃子のすごいアロマ」 「よく分かるわね。で、あの先生の帯――いや、あなたもご飯、今のうちに行った方がいいよ」と、先輩風を吹かす。後輩は「あ、はい。行ってきます」と出てゆく。  がちゃん、と主任が受話器を置く。 「編集一課。要約すると仕事が遅い、だとよ。それならあの先生にいえってんだよな、装丁室としては」  ぶつくさいいながら主任はトラックボールを叩くように転がす。わたしも朝からずっとリストとにらめっこだ。作家でも女優でも脳科学者でもなんでもいい、推薦文を帯に書ける人間を探す。  結局、丸一日費やしてしまった。なんとか帯が埋まる。今日で帯は完成形だろう。だが進捗はスローペースだ。残務を終え、終業する。アパートのドアを開けると、朝に残しておいた「おかえり」がまだ漂っている気がして、「ただいま」と、真っ暗な部屋に返事をする。  就職までは実家暮らしだった。上京のときも、家を出ることへの嬉しさが優った。里帰りも新幹線や空路を使わねばならず、正月も雪でめったに帰れない。それでもいい。毎日が忙しく、充実していた。  家を出て三年目の春だった。仕事帰り、自分の部屋の灯りがカーテンから漏れているのが道路から見えた。――空き巣か、ストーカーか。鼓動が高鳴る。いつでも一一〇番をかけられるようスマホを取り出す。でも、下手に入ったらもっとひどいことになるかもしれない。どうすればいい。  ヒールを鳴らさないよう階段を上る。おかしい。なぜかは知らないが換気扇が回っており、いい匂いがしている。泥棒が自炊? 訳がわからない。混乱し、腋の下に汗をかき、口で息をしながら、防犯ブザーとスマホを握りしめ、ばっ、とドアを開ける。 「あら、おかえり。遅かったじゃない」  母だった。  わたしは口をだらしなく開け、壁にもたれかかる。「やあねえ。もうお母さんの顔、忘れちゃったの?」  鍋には肉じゃがが煮込まれていた。それで換気扇が回っていたのだ。「ちょっと、なんで泣くのよ」 「お母さん」涙があふれる。置いてきたはずの郷愁が押し寄せてくる。パンプスを脱ぎ捨て、バッグを放り、母の前でかがみ込む。「もう、そこじゃま。なんかが散ったら火傷するよ」わたしは掃除された居室でティッシュを探す。 「それで? おかえりっていわれたら、なんていうの?」 「あ――ただいま」そこで母は相好を崩し、「あーあ、もう。大きな子どもだこと。器、出して。残った分はタッパーに入れるから」  そこでようやく、炊飯器が湯気をもくもくと立ち上らせていることに気づく。「ご飯、冷凍庫に」 「ああ。さっき見たけど、やっぱり炊き立てが一番。ほらほら、スーツ着てご飯食べるの? はい、着替えて着替えて」 「それでね、あんたも二十四じゃない。彼氏のひとりやふたり、捕まえてもいいのよ。少しは遊びなさいよ。だから部屋も掃除してよね(と、母は自分で掃除した部屋を眺める)。あと、仕事に行くときは部屋にちゃんと『おかえり』っていっておくのよ」  あつあつのじゃがいもに目を白黒させていても、母は頬笑んで待っている。ようやく口の中のものを飲み込んで「え、なんで」と訊く。 「『おかえり』っていったら、その言霊が出ていかないうちに鍵を閉めるの。そう、言霊よ、言霊。あんたも編集者ならわかるでしょ。そうしたら帰ってきたとき、部屋の言霊があんたに『おかえり』っていってくれるじゃない」  わたしが食べ終えるのを見計らって母は帰ろうとする。「彼氏、いらない。泊まってって」  母はわたしを振りほどきながら「こんな狭いとこでどうやって泊まるのよ。それに帰りの切符、どうすんの? あ、でも(思い出したかのように顔を輝かせる)ちょっといい縁談があるんだけど、それオッケーしてくれたら切符、なかったことにする」といった。 「縁、談?」 「そう。中高で一緒だった西崎君」 「に、西崎? それは、なんか、嫌いじゃないけど」  母は手をひらひらと振って「はいはい、贅沢いうんならここでいい男、見つけてよね。お母さん帰るから。戸締りよろしくね」 「お母さん」母は靴を履きながら「なあに」と肩越しに訊いた。 「どうやって入ったの?」  ふふ、と笑い、ドアにある新聞受けをぱかっと開けた。「この中、見えないとこにフックで合鍵、吊るしてあるでしょ。手が細かったら外からでもぎりぎり届くところの。お母さんと同じことやってるから笑っちゃったよ」  母は帰った。  ご飯も肉じゃがも、冷蔵庫に入りきる量だけ作っていた。  でももし、わたしが合鍵を吊るしていなかったり、あるいは男と寝ていたりしたら、どうするのだろう。「でも、お母さんだもんなあ」とわたしは納得する。母なら、わたしがどうあれ、わたしの母でいてくれるから。  よい朝だ。パンプスを履く。おかえり、と部屋にいい置き、鍵を締める。帰ったら、ちゃんとおかえり、っていうのよ。お母さんによく似たわたしの声で。
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