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父は登山家だった。危険を省みない冒険家だ。
母は、わたしに淑やかに育つよう、冷暖房の利いた室内で始まって終わる仕事に就けるよう、教育に明け暮れた。ピアノは右手と左手がばらばらの動きをするので学校成績の向上にもつながる。四歳より始めた。
次に、幼稚園、小学校の最大の鬼門である水泳。乳児のころから水に親しんだ。幼稚園、小学校で水泳の授業のたびにぎゃあぎゃあ泣く子もいたけど、わたしはそうではなかった。
母は常に障害となるような授業への対処策を講じた。英会話、珠算、公文式。学校での勉強が楽になる、つまづきを防ぐとされる習い事を、母は強引に押しつけるように、わたしに教え込んだ。
父がわたしが八歳のとき、死んだ。
マッターホルンの北壁とやらで墜落し、それを見たパーティがキャンプに下山して伝えたそうだ。もちろん遺体など回収できない場所だ。喪主である母は葬儀でこういった。『夫の死を無駄にせず、ひとりでも多くのひとを登山などという自殺行為から救ってほしい』。
父の背中を見ていた若き登山家たち、生き残りの当時のパーティはSNSで「彼の遺志を絶対に連れて帰る」と宣言し、再びマッターホルンの北壁ルートでの登頂を目指し、死んでいった。
「あのさ、母さん」
「なあに、絵美?」学校から家に帰り、わたしはいった。少し間をおいて、
「父さんって、どんなひとだったの?」と、問いかける。
母は椅子から立ち上がり(その勢いで椅子が倒れる)、顔を真っ赤にする。唸り声をあげ、呼吸を止め、自分の眼鏡を外してリビングへと歩む。
「ああ! ああああ!」
柔和な母の激昂に恐怖を覚えながらたじろいだが、母はソファに座り、ため息を二つか三つ、深呼吸のように繰り返した後で、
「絵美、ここ。おいで」と、ソファをぽんぽんと叩く。母の豹変をわたしは警戒しつつ、隣にかける。
「パパはね」
わたしはぴくっ、と動じ、これから出る母の言葉に身構える。
「すっごく勇敢で、怖いもの知らずで、だれよりも格好よかった。けどね」
母はまた横隔膜のぴりぴり震えるような深呼吸をする。
「死んじゃったら、なにも残らないのよ。確かに登頂したときはスポンサーからお金も入ったの。とんでもない額のね。でも、パパが天国に行った北壁ではだれもなにも得るものもなく、ただただ悲しい、つらい、って。そういうのが登山なの。ほとんどの登山家は山で死ぬ。それで、絵美も知ってるだろうけど、同じパーティ、つまり登山隊ね、そのひとたちはまた北壁にチャレンジした。
――結局、パパが墜ちた時のパーティはみんな天国へ行った。それが、登山。山に取り憑かれたひとは山にしか行き場所がないのよ。パパはね、生きてれば五十一歳。あのとき引退しても賞金とか、貯金だけで暮らすことだってできた。それで、絵美」
母はわたしを抱き寄せ、わたしの頭に頬を乗せる。
「いつかいうんじゃないかってびくびくしてたの、ママは。絵美もいつか、山に取り憑かれるんじゃないかって。だからその時は――」
母はそのままの姿勢で、
「ママを殺してから山に行って。でないとママ、世界で一番大切なひとをふたりも失っちゃうから」
といった。母の表情は、うかがえなかった。
毎年、父の命日は家の簡易な仏壇に手を合わせるだけだった。この年も例年通り、家の和室で仏壇に向っていた。
「パパ、聞いてる? 生きてたら五十五歳ね。でも、ほんとはお母さんの方が先におばあちゃんになるのよね」
家のリビングにあるリビング型仏壇に手を合わせた。わたしも母と並んで手を合わせる。「じゃあ、絵美。行こうか」
「え?」立ち上がった母についてゆく。「買い物?」
「ううん。もっとすごいものよ」
車で二時間。「ねえ、お母さん。ほんとにどこ行くの?」
「もうすぐよ。もうすぐ着くわよ」母は間延びした声で答える。
駐車場に車を停める。「ここ、お父さんの――」
落ち葉がきれいに掃き出された歩道を歩き、そこへ着く。スイスの領内だったので父の墓はスイスの外国人墓地にあると聞かされていた。
が、目の前には――。
十三人、いや、もっといるだろうか。白人を中心に有色人種たちもそれぞれの嘆きとそれぞれの祈りを代わる代わる跪いて唱えていた。
母は私の手を握る。「ここがパパの本当のお墓。あそこにいる人たちもきっと、これから山で死ぬ人たちよ」
帰りの車は始終無言で、カーステレオだけが無邪気だった。
母が音楽をとめる。「もう、あそこのお墓には行かないからね。もし絵美がひとりで行ったら――ママ、耐えられなくて死んじゃうから」
その後、父のことにはひと言も触れず、わたしは受験生として勉強に励んだ。
わたしは外国語大学を志望した。
オープンキャンパスでフランス語のたおやかさ、ドイツ語の正確さ、イタリア語の賑々しさ。なかでもわたしは中国語のけんか腰のような、でも静かに語れば柔らかな外国語に恋をした。
「通訳になるの? すごいわねえ、観光客の案内とか?」
母も別段の反対はせず、かつ国立大を十分射程圏内に納めていたので後押しもしてくれた。
いえなかった。
父のお墓へ参列してくれた人たちに「父はどういう人だったか、父はどういう状況で亡くなったか、父の最期の言葉はどのようなものだったのか」と、訊きたかったのだ。だがそれには言葉が、言語が必要だった。語る必要がある。誰かが誰かに語り継がなければならない。人々の心の記憶は死んでしまえば消え去る。でも、記憶を言葉にして岩に心に魂に刻み込めば、そのひとは人々の中で長らえる。そうでない死人は永遠の死人となり、その命も感情も、志も完全に、未来永劫失われてしまう。
わたしは、父がなぜ山に惹かれたのかが知りたかった。
さらに父の動機がどうあれ、わたしは父を語り継ぐ存在となりたかった。父の死に、いや、生きていた父に積極的に関わろうとしていた。父を思い出に閉じ込め、父を小さく小さくして逃げてゆこうとする母をわたしは卑しいとすら感じていた。
――いや、それは個人の自由だ。観光客の案内も、SF小説の翻訳もだ。大使館で働こうがホテルのフロントで働こうが、自由なのだ。だから、わたしが父への興味を持ち続けていても責め立てられるようなことではない――そう、半ば自己暗示のように考えていた。
予定通り国立の外国語大学に進学したわたしは、西ヨーロッパ言語をメインに、さまざまな言語を分野横断的に学んだ。それからさらに、翻訳課程、通訳課程、日本語教員課程とひと通りは学習した。
夏の日だった。
「絵美、大学はどう? 彼氏さんはもう見つかった? 変な男に引っかかってないわよね?」
「もう、母さん心配しすぎ。成績はけっこういい方よ、母さんの教育がよかったからかな? 実はいい感じのひと、いるよ。今度の連休でそっちに挨拶に行きたいって彼もいってるわ」
じゃあね、風邪ひかないでね、とお互いに気遣ってわたしはグローブを外し、国際電話の終話をタップした。標高二〇〇〇メートル――寒いな。スイス、ツェルマット。あまりにも峻険なマッターホルンがその北壁と東壁を見せている。徐々に高度を上げたし、何年もの経験で高山病はない。この頃は母に嘘ばかりついている。わたしはもうすぐ三十路で、男っ気のないことでここのキャンプでは知られている。
「なあ、エィミィ! 来てくれ! イタリア野郎がブルっちまって『ママ助けて!』ってほざいてるんだ!」
もう吹っ切れた。父の死を否定し続けた母は若年性認知症となり、その進行はとても早かった。父が命を賭してまで目指した高みを、わたしも目指す。登山隊随伴通訳として母を欺くのも、もしわたしが死んでも母には理解すら及ばないと高をくくるのも、もう吹っ切れたはず。
「オーケー、すぐ行くわ! そいつに金玉がちゃんとついてるか、あたしが蹴っ飛ばして確かめてやるから!」
そういったわたしは草原を足取りも軽く、キャンプへと駆けていった。
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