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特別暖かくもなければ寒くもない、平凡な冬だった。
最終に近い電車に揺られながら、窓ガラス越しの半透明の暗闇を眺めるともなく眺めている。聞き慣れたようでいて一度も真剣に耳を傾けたことのない自動音声のアナウンスが日本語と英語で交互に流れ、ひどくレールを軋ませて電車が減速を始めれば、じきに眩しいホームの端が飛び込んでくる。
再生ボタンを押して始まるドラマのように、毎日はどこか他人事だ。電車が人身事故の影響で数分遅れてやって来たことも、ほんの少しその事故を悼んだことも、一駅も越せば遠のき、降車駅に着く頃には忘れてしまう。くすんだ色のタイルが視界になだれ込み、柱と柱の間から歯科クリニックの、私立大学の、けばけばしいパッケージのエナジードリンクの、そしてぽっかり空いたひときわ大きな広告スペースが現れては過ぎ、キィキィと苦しそうに鳴りながら電車が停止した拍子に、少しよろける。一様に暗い色の外套を着た人間をドアから吐きだし、すぐに動きだした電車に追い抜かれ、エスカレーターを上って改札を出て、またエスカレーターを上り、最後の階段を上って地上に出る。ぼんやりと火照った頬をさらう外気は今日も冷たく、しかしそれは特別暖かくもなければ寒くもない平凡な冬の夜風で、夏鹿は昨日と同じように小さく身震いしながら、昨日と同じように両手を中綿コートのポケットに突っ込み、交差点の横断歩道へ歩みを速めた。
入り口が緩い下り坂になった細い路地は、積み木を寄せあったように住宅がぎっしりと建ち並び、マンションへの十分足らずの道のりのちょうど中間地点あたりにごく小さな公園がある。アーチ型の車止めの奥に、シンボルツリーと呼ぶべきか大きな木が一本と、地面に打ちつけられた杭のようなコンクリートの無機的なスツールがいくつか、あとは馬だろうか古ぼけたスプリング遊具があるばかりの公園だが、夜中でも中高生のカップルが肩を寄せて語らったり、少年たちがダンスを練習したり何をするでもなくたむろしていたり、酔っ払いが居眠りしたりもしている。自分はいつもその風景ともつかない様子を横目に通り過ぎるだけで、彼らのストーリーと交わることはほとんどない。だから、この車止めの前で立ち止まったのは、去年の夏、死んだように眠る酔っ払いが万一本当に死んでいやしないか確かめるために、少しの親切心と好奇心で、いびきの聞こえる距離まで近づいた時以来だった。
最初は真っ黒な塊にぎょっとして、すぐに、飛んできた洗濯物か何かだろうと思いなおした。よく目を凝らせば、それはダウンに着膨れした男の姿だった。
特別暖かくもなければ寒くもないとはいえ、こんな真冬の真夜中だ。冬枯れした植え込みの脇に座り込む――いや、うち捨てられた空き缶のようにそこにある男が、生きているのか死んでいるのか、やはり自分は少しの親切心と好奇心で近づいている。
声より先に広がった白い息が、眼鏡の下半分をうっすら曇らせる。
「――こんばんは」
俯いたままの男の唇からも、白い息が薄く漏れたような気がする。そうそう死体に声をかけるシチュエーションは、訪れないらしい。
「こんなところで寝てたら、風邪引いちゃうよ」
じっと俯いたままの男のつむじの、すっかり黒い根元から透けるように淡い毛先の金色への、グラデーションというにはグロテスクな濃淡は生々しく、しかし、襟足から覗く青白いうなじは外灯の明かりの下でやけに作り物めいて見える。
「大丈夫? 具合悪いの?」
応える素振りのない男に、ボリュームを少し上げて重ねて呼びかける。
「ハロー?」
身じろぎのかすかな音は、衣擦れだったのか、植え込みの枝を弾いた音だったのか。
「…………聞こえてる。平気」
ようやく返ってきたのはいかにも億劫そうな、少しも異国訛りのない、まだごく若い男の声だった。諦めたようにのろのろと夏鹿を見上げる彼が煩わしげに前髪を掻き上げると、額が露わになる。眉間からすっきりと通った高くなだらかなかぎ鼻、つむじと同じく黒々とした眉はくっきりと整い、彫刻刀で丹念に刻んだように見事な切れ長の目蓋の下、酩酊した様子もなく夏鹿を捉える双眸は冷たいくらいに冴え冴えと輝いている。
美しい男だった。
やや肉厚の唇が三日月を象り、薄く開いた隙間から赤い舌が覗く。
「めんどくさいから無視してただけ」
冷淡な失笑も、抑揚に欠ける薄情そうな声のトーンも、そのくせどこか愉快そうな目つきも、すべてが誂えたように彼にぴったりだった。
まばたきもできずにいる夏鹿の視界の中で、パチ、短く一度、目を瞬かせる。それからまた、冷たく、そのくせどこか愉快そうに笑う。
「なんか言ってよ。そっちから話しかけたくせに」
言いたいことは言い終えたあとだったが、パチ、男のまばたきに促され、夏鹿はインストール済みのせりふを繰り返す通行人Aの気分で結んでいた唇を開いた。
「――風邪引いちゃうから、寝るなら場所変えたほうがいいよ」
「そんなこと言うために、声かけたの?」
「まあ、うん、そうかな」
「親切なんだ」
笑い含みのジャッジは、揶揄なのか非難なのか。再び煩わしそうに前髪を掻き上げ、双眸を細める。
「ね。俺の顔、そんなにおもしろい?」
彼の瞳が逸らされないから、自分も目を逸らせないでいる。不躾さはお互い様だったが、捉えられているのはこちらのほうだということくらい、よくわかっている。
「ううん……ただ」
「ただ?」
「きれいだと思って……すごく」
思わず打ち明けた賞賛に、パチ、パチ、冴え冴えと輝く目をたっぷり二回瞬かせて、彼は今度、弾けるように笑い声を上げた。ダウンの腕に顔を伏せ、肩と髪を大きく揺らして、咳き込むようにしばらく笑っていたが、やがて、ぱっと夏鹿を仰ぐ。
「ねえ、親切なお兄さん」
青白い頬にわずかに滲ませた血色が、作り物めいた精巧さをいっそう際立たせる。
「泊めてくれない? 行くとこないんだよね」
乾いた目に目蓋の裏がくっつく感触に、ようやくまばたきが訪れたのだと気づく。彼の言葉は、逃亡者の哀訴にも詐欺師の誘惑にも享楽主義者の戯れ言にも聞こえたし、まるで気のない冗談のようでもあった。抑揚に欠ける薄情そうなトーンは誂えたように彼にぴったりだったし、ト、ト、ほんの少し逸りだした鼓動が最終に近い電車の中で微睡みながら見ている夢にしてはリアルで、だから、自分にとってはどれが正解であっても、正解などなくても、きっと答えは変わらなかった。
「――いいよ」
夏鹿が頷くと、着膨れしたダウンの中で肩を揺すって笑う。持て余すように投げだしていた長い脚を屈伸し、すっくと立ち上がった彼は、横に並ぶと、成人男性の平均身長を二、三センチばかり上回る程度の自分よりずいぶん背が高かった。夏鹿は冷たい空気を小さく吸い込み、来た方向と反対、マンションのほうを指差した。
「あっち。ここからすぐ」
引っ込めるのに失敗したような半端なくしゃみをした彼と交わした短いひと言のほかは、無言だった。三角屋根の洒落たハイツとベージュのマンションの間にある、外壁の青く塗りなおされた三階建てのマンションが夏鹿の住み処だ。鉄筋コンクリート製だからこれでも分類はマンションになるらしいが、レトロと呼べるほどの趣味のよさはない、くたびれた建物だった。管理会社の貼り紙がチラシ投函禁止を警告する集合ポストの、203号室の細い口からはチラシの端が覗いており、それを抜き取って、一応蓋を開けた拍子にひらりと滑り落ちた検針票を不恰好にキャッチする。外階段を上る革靴の硬い足音を、スニーカーの柔らかい足音がテンポをずらして追いかけてくる。玄関の鍵を回してドアを開け、壁際のスイッチで明かりをつけると、夏鹿は背後を振り返った。
「どうぞ。狭いところだけど」
小さく顎を引いて頷いた彼は、黙りこくったまま玄関に入り、膝の高さまで上げた片足の足首あたりを掴んで見事な静止を見せ、すぐにすっぽりとスニーカーを脱ぎ落とす。ゴトッ。
ありふれた狭い1Kの、キッチンとの仕切り戸は特段慌てて出た日でなくとも大抵開けっぱなしで、いつでもほどほどに散らかっている様子が玄関から丸見えになっている。まあ、たぶん、世間的には、散らかっている部屋の中では片づいているほうだろう。給湯器のスイッチに手を伸ばすと、ひび割れた合成音声が毎回律儀に栓の閉め忘れを注意してくるから、それを無視して何度か痛い目を見た自分は、心配になって浴室を覗く。コートを脱ぎつつ半日前の自分が脱ぎ捨てた寝間着をベッドの上へ避難させ、エアコンにリモコンを向けると、ゆっくりと開いた送風口から勢いよく風が吹きだす。自分より帰宅の遅い住人もいるが、真夜中の帰宅ルーティンは多少なりとも物音に気を遣う。そう古くはないように見える備え付けのエアコンの室外機が、運転開始直後にいやに苦しそうな音を響かせるのが少々気懸かりだった。
消臭スプレーを吹きかけたコートをハンガーラックにかけ、空のハンガーを手にまた振り返る。分別のいい仕草で彼が大きなダウンを脱ぐと、その下は首元のごくシンプルなネックレスを除けば、真っ白なタンクトップ一枚だった。やはり丹念に刻んだ彫刻のように引き締まった剥きだしの肩や腕は、明るい部屋で見るといっそう抜けるように白い。
「まだ着とく?」
「んー、部屋あったまれば平気」
ひょいと渡されたダウンを受け取りながら、夏鹿はエアコンの設定温度を表示がMAXになるまで上げた。ピ、ピ、ピ、ピ……。
落ちかかる前髪を煩わしげに掻き上げた彼が、ふっと小さく失笑し、それから、堪え損ねたように喉の奥で笑いだす。
「なに?」
「上手くいくもんだなと思って」
どういう意味だと問い返すより先に、再び口を開く。
「俺が強盗とかさ、そういう、悪人だったらどうするの?」
抑揚に欠ける薄情そうなトーンは、露悪的な言い草によく似合っていると思う。もっとも、もし彼が強盗なら、あまりに見る目がない。
「盗る物があるように見える?」
「ないほうが危ないでしょ」
わずかな現金を奪われた挙げ句に重傷を負う会社員、なんて、気の毒なニュースの見出しを空想する。
「はは、そうかも」
「……笑うとこ?」
「笑うとこじゃなかった?」
ここ数年で最低限しか持たなくなった現金はもちろん、あちこちに積んだ本も、使い古した家具も家電も、ファスト・ファッションブランドばかりの服も、戸棚のインスタント食品のストックに至るまで、何ひとつたいした価値はない。今、胸に抱いている彼のダウンこそがこの部屋の中でいちばんの高級品なんじゃないかと、縫い付けられた小さなタグを見れば少なくとも自分の通勤用コートよりはるかに上等だとわかるそれを、クロークの気分でハンガーラックにかけると、香水だろうかバニラのような甘い残り香がふわりとかすかに鼻先をくすぐった。洗濯物置き場になったソファから半分落ちかかったブランケットを剥がした彼は、躊躇なく空きスペースへ腰を下ろすと、気に入りのブラックウォッチのそれを仔犬でも抱くように胸に抱き寄せて、夏鹿を見上げる。
「駅前の怪しい募金とか、したことあるでしょ」
「怪しいと思ったら、しないよ」
「いいひとなんだね」
揶揄なのか非難なのか、笑い含みのジャッジに夏鹿は曖昧に首を振った。
「いいひとでいたいとは、思ってるけど」
「ほんとはいいひとじゃないってこと?」
ほとんど言葉遊びのように投げかけられた問いに、今度はこちらが少し意地悪く問い返す。
「どう思う?」
彼はほんのわずかに瞳の色を迷わせたが、すぐに白けた顔になり、気怠そうに身体を背もたれに預けながら、気怠そうに答えた。
「……どっちでもいいや」
「お節介だった?」
「全然。行くとこないのはほんと。帰るとこもなくて、寝る場所探すのもめんどくて、なーんか、ぜーんぶ、やんなっちゃってたから」
リズムを取るように茶化して言いながら、上目遣いを眇める。
「間男がバレて、追いだされたんだよね」
今度ははっきり揶揄の浮かんだ美しい顔が、美しい肢体が、なるほどこんなにも作り物めいているのにこんなにも生々しいわけだと、思わず嘆息してしまう。
「……僕には無縁の世界だ」
「っぽい」
「そう思う?」
「見た目はね。そんなの、いちばん意味ないけど」
またふと白けたように言った彼の、身じろぎに合わせてシルバーのネックレスが音もなくずれるのを眺めていたせいで、手首に巻きついた冷たい感触に大げさなくらい驚いてしまったかもしれない。
びくりと肩を跳ね上げた夏鹿がよほどおかしかったのか、鼻に皺を寄せて笑う彼の面差しは一瞬前と打って変わっていやにあどけなく、しかしどちらも美しくて、少し傾ければ色を変える宝石のようだと思う。
「ねえ、名前教えてよ」
「――夏鹿」
「かじか」
たった三文字の回文を、不思議そうにおうむ返しにする。
「夏の鹿って書くんだ」
「中川夏鹿?」
ポストの表札を見ていたのだとしたら目ざとい。ああ、それとも、そこに置いた検針票が見えているのかも。
「うん、そう」
「ふ。かわいいんだ」
「きみのことは? なんて呼んだらいい?」
彼は少し思案するように天井を睨んでから、口笛を吹くようにつんと唇を尖らせた。
「ヒューイ」
その軽やかな音が、彼の名前なのだ。
「ひゅう、に、えらいって書く」
長い指が宙をなぞる軌跡はあまりに複雑で、読ませる気もないのだろうと笑ってしまう。
「わかんないよ」
彼は再び夏鹿の手首を掴むと、まだじゅうぶん冷たい指先で、一画ずつゆっくりと手のひらをくすぐる。
「彪偉」
音の軽やかさと裏腹に、鮮烈な名前だった。呟いた夏鹿に、根元の黒い金髪頭が小さく頷く。そうして、煩わしげに掻き上げた前髪の下から、揶揄うような誘うような、それでいてまるで気のないような上目遣いが寄越される。気まぐれに移り変わる瞬間の表情すら、タイトルのついた作品のようなのだ。人間は、命は、あるだけで美しいと思う。みな美しくて、みな哀れだ。そして、こんなにも一様に特別な世界の中にいても、彼はきっと、何とも交じらないのだろう。
「はじめまして、彪偉」
夏鹿の顔を映す彼の瞳が見開かれ、瞬く。彪偉は明後日に向かって、大きく破顔した。
「なにそれ」
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