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『火の構え』
あーあ。
またつまらぬガチャを回してしまった。「あーあ、もう。なんなんだよ」そのガチャへつぎ込むわたしもわたしなのだが。
母の呼ぶ声がした。わたしは瞬時に判断する。
「いまリスニングしとるけん、ちょっと待って!」完璧な回答を一階の母に口述したのち、ゲームを再開する。ついでにクーラーの温度も下げる。電源につなぎっぱなしのスマホがカイロなみの熱を放っていたからだ。
「あっこー、降りてきー。ミホちゃん、きょうるんよ。練習付き合ってくれるってー」
は? というより、正気?
あーあ。
一応の身なりは整え、階段を降りる。あーあ、もう。朝っぱらから、あーあ、だ!
「あっちゃん、おはよう。勉強しとったん? 邪魔だった?」と、白の道着袴といういで立ちでミホが頬笑む。
「ま、これでも高校生やん、なあ? ミホもよく朝からそんな格好しとるよね。熱中症になるよ? 上がり? アイス食べよ?」この子はずっと綿の道着に綿の袴だ。それも赤胴白防具。こんな住宅街、もし防具を着装していれば確実に補導されるであろう、異質な存在感。わたしは若干のめまいを覚え、新種の三葉虫かアステカの巨大遺跡を発掘したかのような面持ちでミホを見る。
ミホは口許だけで頬笑み、「形の稽古、見てほしいんよ。わたし、高校でぜったい三段取るから。だから、ちょっとだけ」といった。
ミホ、か。目だけは笑わねえんだよな、この子。
ふたりで近所の公園へ移動し、稽古開始から三〇分。
「ちょっと、やめやめ。ミホ、なんか飲もう。死んじゃう。十中八九死んじゃう」
炎天下である。いかにわたしが清純な乙女であろうと、いやそうでなかろうと世にも悪辣な罵言を天に向かって吐き出せる気温だ。
わたしは木刀を提げ、ベンチに向かってよろよろと歩く。蝉だけが元気だ。でも、こうもうるさいと風情もへったくれもない。木のベンチにどっかと座りこむ。
自宅から一番近いこの公園は、やはり子どもの姿は見かけない。だから安心して木刀を振れるわけだが、それにしても、だ。真夏の公園で眉目麗しき女子高生が稽古しているだなんて、なかなかない光景だ。それに真夏は木刀なんて振るもんじゃない――個人的見解ではあるが。
「うん、わたしも喉乾いた。暑いねえ」
暑いねえ、じゃねえよ、ミホさんよ。ミホは自分のリュックからスポーツドリンクの二リットルボトルを二本出す。渡された一本をわたしはがぶがぶと飲む。どうもかさばるリュックだとは思っていたが――こいつ、四リットル背負ってきたのか。つまり二リットル分はわたしに汗をかけ、と。
「大丈夫?」ミホが気遣う。
「ミホなあ」ぬるい風に涼みながらわたしはいう。
「うん?」
「形なのに、なんであんなに離れてやるん?」
ミホは口許だけで笑い、「全剣連が対人稽古、禁止しょうろうやん。だから三メートルくらい離れて、屋外でならまだいいかな、って」とこともなげにいう。
「ああ、まあ、そうだね」二の句も継げず、スポーツドリンクをぐびりと飲む。
この期に及んで剣道か。それにしてもこいつ、前世はぜったいサムライかなにかだ。確かに汗びっしょりだが、この稽古量ではいかに白道着であろうとベンチに背中もつけるだろ、ふつう。わだつみのこえを聞けとはいえないが、自分の背中の声くらい聞いてもいいんじゃないかえ、ミホさんよ。しかしミホは身体の関節という関節が九〇度の角度を保たないと死んじゃうひとみたいな居ずまいだ。
タオルで顔をあおぎながらわたしは訊いた。
「つーかさ、なんでそんなに頑張るの? っていうか頑張れるの?」
「なんで、って?」ミホはきょとんとする。
「部活もないならインターハイもないし。一応、そこの体育館で予定されてたやつもソーシャルなんちゃらで白紙じゃん」
ミホは少しうつむいて答えた。
「わたしね、勝ちたいの。相手がだれであれ、どんなかたちであれ。勝つのが好きだから。だから」
「だから、インターハイは」
「あっちゃんは、旗が上がったり公式戦で勝ったり、だれかに認められないと勝った気がしないの?」
わたしは顎をくっ、と引いてミホの眼差しを見る。この子、遠山の目付だ。わたしを見ながらもその焦点は遥か遠景に結ばれ、それより手前にある物や人は、写真用語でいうならパンフォーカスで合焦している。視点の固着と動揺を防ぐ技法だ――いまのミホの目は、その遠山の目付。わたしが動いてもミホの眼球は動揺することがない。決して武装を解いた者の目ではない。
「は? どういう意味? んまあ、別にいいんだけどさ。剣道の勝ち負けくらい」
ミホがくれたスポーツドリンクをたらふく飲んでしまった。表面がささくれだった木製のベンチに思い切り背中をあずける。
「それにわたし、今ならあっちゃんに勝てる気がする」
「へえ、そりゃすごいわ」
気にも留めないで、木漏れ日のまぶしさに目を細める。きょうも猛暑日だろう。それなのに屋外で道着袴姿なのは正直、神経を疑う。でもミホならありえなくもない、か。結論すると、わたしは早く昼が来るように祈った。公園の時計では、いま十一時半。さすがに昼食までには帰らせてくれるだろう。いや、帰る。決然と帰る。そしてクーラーとアイスとゲームだ。あーあ、仮病でも使えばよかった。これじゃあ本当に体調を崩しかねない。
「でも、試合とかじゃないし、あんまり意味ないかもね、わたしの個人的な感想だから」
ミホの目はちっとも笑っていない。今度は遠山の目付ではなく、わたしの右目を注視している。冗談も愛想もなにもないことに気づく。
「どういう意味」
「えっ、別に大した意味じゃないよ。ただ、さっきの気位だったら、あっちゃんに勝てないかなあ、って」
わたしは咳払いをひとつする。
「ええと、いまさ、あたしが三段で、ミホが二段。けど、あたしのやる気と稽古量が足りなくて、それで、自分勝っちゃいそうだって思ったの、ミホ」
「あっ、ごめん。うざかった?」と、ミホは取り繕う。「だってさ、スポ少でもわたし、毎日泣いてたし。そのときでもあっちゃんは先生たちに褒められて、防具もみんなの中でいちばん先に着けていいよ、っていわれて。中学じゃ女子部長じゃん? わたし、これでも悔しかったんよ。いつも負けてる気がしてた。だから」
「休憩終わり。整列」わたしは勢いよく立ち、木刀を提げて園庭の中央へ走る。「え? な、なに、あっちゃん?」
「あと二秒!」ミホは大急ぎでペットボトルの蓋を締め、わたしを追い越して中央へ走った。
「——遅い」ふたりで静かに、神前へ三〇度の最敬礼。向き直り、お互いに十五度の敬礼。
「立ち合いの間のまま行なう。わたしが上(かみ)になるから打太刀(うちだち)、ミホは仕太刀(しだち)。日本剣道形、太刀の形七本を通す。のち、その場で交替」
インターハイもない。部活も、近所の道場もだ。だれかと竹刀を交える機会がない――そう思い込んでいた。わたしは不可抗力で場外へ出されたつもりだったが、ミホはずっと、剣を構えていた。試合場に踏みとどまることに心血を注いでいた。ミホは、小学校の頃から今まで竹刀を構え、試合中だった。そのミホに気位――気合いで負けた。腕はわたしの方が上、確かにそうだったであろう。しかしその慢心はミホに「勝てる」と値踏みされたのだ。
「ミホ? どしたん?」
中学三年の夏、稽古が終わるとミホが給食室の裏で泣いていた。
「だ、だって、わたし三年生なのに、剣道九年やってるのに、また二年が試合に選ばれた。わたし、もう剣道辞めたい」
「ああ、なんだ」
ミホは明らかに逆上して「なんだって簡単にいわないで! わたし、剣道やってて結果が出なかった。なにも出なかった!」
わたしはミホの背中に自分の背中をくっつけて座る。「でもさ、剣道って、勝った負けたでいい切れないじゃん。そりゃ、勝てたら嬉しいけど。べつにケンカも強くなんないし、足も速くなんないし。暑いし、寒いし、あんまメリットないじゃん」
「手とか足の皮、ずる剥けるし」
「んだ。ガキが剣道はじめたら初日の三〇分でそうなって泣きわめく。あたしら手のひらとか、女子の手じゃないよ」
「先生も完全に昭和だし、防具も臭いし」
「道着も乾かないし」
「だからあっちゃん、ポリエステルにしたの?」
「んだ。ミホもせめて袴だけでもテトロンかなんかにすればいいのに」
ふたりで手を使わず、せーのっ、と背中と足だけで立ち上がる。
「剣道って身体に悪いな、ほんと」わたしがいうと、ミホは、
「なんで剣道やってんのかな、うちら」とつぶやき、
「わかんねえ」とわたしが答えた。
「だよね。なんか知らないけどやってるよね」と、ミホは幾分すっきりした面持ちでいった。
違う。違う、違う、違う!
明確な理由があったのだ。わたしは、ミホがいたから竹刀を握れたのだ。勝利は気持ちがいい。自分より下の者が、いつでもわたしを勝たせてくれる存在があったからだ。休部によって勝ちうる対象が消えると、わたしはあっさりと剣を置いた。わたしは、勝てる相手しか相手にしていなかったのだ。
七本目が終わる。
「打太刀、仕太刀はその場で交替」めまい、頭痛、吐き気を覚えながらもわたしは木刀を右手に持ち替える。
「はい!」とミホが応えたものの、「え――あっちゃん? ねえ、あっちゃん!」その場で水のような嘔吐をするわたしへ血相を変えて駆け寄る。
「違う」よろよろと立ち上がる。
「え?」
「違う。わたしは、強くない」
ふたりで立ち会い、木刀を構えなおす。
わたしは、勝ちたい。猛烈に。挑戦し、勝利したかったのだ。小学一年の時からずっとだ――その相手がいまわかった。ああ、強くなりたい。だれよりも強く、昨日よりも強く。わたしに勝ちに来た相手への礼節として、わたしが勝つ。手心も遠慮も不敬だ。わたしは強かったのかもしれないが、今はそうではない。ならば強くあるしかないのだ。勝利はステータスでも名声でもない。ただの紙の上のマルかバツだ。それを今のわたしが覆すには――。
日本剣道形、太刀の形一本目。相上段から斬り合う形だ。打太刀が諸手左上段を構えると、仕太刀のわたしは諸手右上段を構える。斬られてでも、斬る。上段の構えは別名「火の構え」――たぎるような夏だった。
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