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もう古い話だが、初めて訪ねたニューヨークで、私は石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を歌った。そこは日本人ママが経営する店だった。ホテルのバーで知り合ったアメリカ人に誘われ、その店に行った。本来なら避けるべきだったが、初めてのニューヨークで酒を飲み、かなり調子に乗った結果だった。
この歌は作詞・阿久悠、作曲・三木たかしによるもので、1977年に発売されるや大ヒットした。そして最近も彼女自身が年末の紅白歌合戦で歌っている。累計売上はミリオンセラーとなり、昭和を代表する楽曲である。ある意味1970年代に生まれたカラオケで進化した“戦後生まれの文化の象徴”であろう。
「津軽海峡冬景色」
https://www.youtube.com/watch?v=fV59rg-jtp4
その店のドアの前で私は緊張した。なにしろ店のドアには数個の南京錠がついていた。ホテルから離れた路地の奥で、歩道を歩く人は誰もおらず、映画で見聞きしたことのある例のサイレンが鳴り続けていた。実は「独りで夜の街を歩くな」と現地の友人から言われていたのだが、好奇心には勝てなかった。
ギギギーと開く重厚なドア、奥からギャングが現われるのかと思いきや「あらっ、いらっしゃい」と、出迎えたのは着物姿のママさんだった。知り合ったアメリカ人は日系の銀行マンで、そこは彼の行きつけのスナックだった。幾つか並ぶ円形カウンターの一角に座り、確かサントリーオールドを飲んだ。
カウンターに座って一杯飲むと、ママ以外は外国人ばかりなのだが、日本にいるような気になった。「なにか新しい歌を」と言われた。その店には、当時はまだ日本でも珍しいカラオケ装置があった。私が「津軽海峡」を頼むと、ママは「この歌を歌う人は初めて」と言った。私は酔いに任せて熱唱した。
生涯、あれほど拍手を頂いたのは、あれが最初で最後だろう。後から思えば、当時店を訪れる日本人は団塊の世代より上が中心であり、私にとって幸いなことに、彼らはカラオケ文化に慣れていなかった。他の外国人は素人が歌を歌うとは思っていない。だからこそ、私の歌が上手く聞こえたに違いない。
最後に、なぜこれを書いたかというと、昨夜のニュースが発端である。なんと今韓国では日本の昭和の歌が大ブレークしているらしい。火付け役はテレビ局の女性プロデューサーで、彼女が企画した「日韓対抗歌合戦」が発端だという。70代半ばの日本人男性歌手が登場し、昔の大ヒット曲を熱唱していた。
1980年代、毎月のように韓国へ出張し、夜はカラオケを楽しんだ者からすると隔世の感がある。当時は現地で日本語の歌を歌おうとすれば、必ず日本人専用の店でしか歌えなかった。だから私は、チョー・ヨンピルの「釜山港へ帰れ」を韓国語で覚えたのだが、それが今では歌合戦までできるというのだ。
願わくは、パレスチナとイスラエルも、そしてウクライナとロシアも、互いに歌合戦で火花を散らし、互いに手を叩き、そして一緒に「乾杯!」と酒を酌み交わせる時代が来て欲しい。トップが決断すれば、例え年月を費やしたとしても、必ずや実現する。それを切に願うばかりだ。
(了)
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