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六月下旬の金曜日。
約束の時間である十七時よりも十五分早く高校の正門前に出た翠は、あたりに環波春の姿がまだないことを確認すると、軽く息を吐いた。
日中は教室で大人しく授業を受け、放課後は図書室で時間を潰し、夕方になるのを待った。
翠は帰宅部で何の部活動にも所属しておらず、また委員会などの役職も辞している身なので、学内でも居場所は限られている。今日のように図書室で図書委員に紛れて読書をしたり、立ち入りが表向き禁止されている屋上に上がり込んで煙草をふかすか、空き教室を利用するかのどれかとなる。
翠は三年生であるが、年齢的にはすでに十八歳を迎えており、ふつうの生徒よりひとつ年上だ。
持病により長く休学をしている期間があり、通常通りの進級と卒業ができなかったため、三年生を二回やることになったのだ。
そのため、事実上の学友たちは一足先に高校を卒業してしまい、翠はひとり取り残される形となった。クラスに友人と呼べる同級生も数名いるが、正直少しだけ浮いている気がして身の置き所に困ることもないではなかった。
待ち合わせの時間まであと十分を切った。
今日は髪をハーフアップにアレンジして、爪には自然な桜貝色のネイルを施し、教師から注意を受けない程度に化粧をして、それなりに身支度を整えてきたつもりだ。
最後にリボンが曲がっていないか確かめ、少しだけきつく結び直す。
背後の校舎からは吹奏楽部がコンクールに向けて練習をする音色が聞こえてくる。その時だった。
「きみ、ここの学生? かわいいじゃん」
「誰かと待ち合わせとかしてる?」
「時間あるなら少し付き合わない」
翠は内心で「ちっ」と舌打ちをして、それとは裏腹に適当な微笑みを浮かべる。
「ごめんなさい。今はちょっと……人を待っているもので」
翠に絡んできたのは大学生とおぼしき青年三人組だ。
翠の通う道立高校は周辺に専門学校や国立大学の敷地があり、少し歩けば役所にも歓楽街にも行き当たる微妙な立地にある。
だからこの時間帯にこのような若者がいてもおかしくはないのだが、タイミングは最悪だった。
帰宅部組の下校時刻には生活指導の教員がいることも多いが、この時間は学校側の態勢も手薄であった。
「えー。少しならいいじゃん、カラオケとかさ」
「お勉強でつかれてるっしょ。おごるよ、おれら」
「ほら、いこ!」
思いの外強い力で肩を掴まれる。体がびく、と震え拒否反応を示した。
抵抗しようにも思うように腕に力が入らない。翠は思わず声を上げかけた。
「ちょ、やめ――」
「……なにしてるの。その子、僕の相手なんだけど?」
よく通るが、低く、苛立ちを含んだ声が聞こえた。
不機嫌極まりないといった表情の環波春がそこにいた。
灰暗い青色の目には冷たげな怒りのような色が浮かび、冷たい美貌には下品なものでも見るような侮蔑の色が浮かんでいる。
「翠さんは待ち合わせに出てくるの、早すぎ。この辺は人通りも多い。若くて可愛いんだから、もっと気をつけなさい」
「えっ? えっ、ええ――ふぇ?」
情報量が多すぎて翠はしどろもどろになった。
「で、君らはどうするの。さっさと帰れば? 北楡大生でしょ。それなら勉強で忙しいはずだ」
上背のある環波の迫力に怯んだのか、青年たちは翠から手を離し、環波に軽く会釈する。
「っす。ですよね〜、失礼しました」
「じゃあ、デート楽しんで」
などと言ってそそくさと正門から離れ、歓楽街方面へと去っていく。
その後ろ姿を尻目に環波が「クソ虫が」と小さく吐き捨てたのを翠は聞き漏らさなかった。
うわあ、この人なんかこわい。
環波は一息吐くと改めて翠の方に向き直った。身長差で自然と上を見上げる形になり、翠は次に何を言われるのか不安になって一歩だけ後退った。
「ちょっと遅くなったかも。ごめんなさい。平気?」
「え、ええ……はい。大丈夫、です」
先程までとは打って変わって、環波の態度はあくまで柔らかいものだった。
拍子抜けしたというか、緊張感が一気にほどけて、翠は大きく息を吐いた。
「この前と同じ。すっごく緊張した! でも、環波さんが来てくれてよかった」
まだ恐怖心が抜け切っておらず、そこから急激に弛緩したことで自然と笑みが漏れてくる。
「……よかった、って。当然のことだし。というか、だめ。そういう無防備なの禁止。だめです。君は本当に気をつけるように」
環波は片手で口元を抑えると、ふい、と目を逸らしてしまった。
心なしかその頬には僅かに朱がさして見える。
「なに。ひょっとして照れていますか? 相手はおれみたいな子どもですよ」
「……照れていません。だいたい子どもだっていうけど、もう十六、七歳にはなっているでしょう」
「惜しい、十八歳です。おれ、一年分留年していますから。環波さんはいくつなんですか?」
「二十六歳。今年で二十七になります。あと、環波じゃなくて春でいいです」
「ふーん。九歳差か。やっぱり春さんは大人でおれは子どもですね」
「……そうかな」
「そうですよ。ああ、とりあえず、移動しましょうか。先生が来たりしたらちょっとまずいから。今日は何か決めてあるんですか? というか、なんで誘ってくれたの」
「……なんとなく。いえ、この前のお礼、していないなって。だから、もし嫌いじゃなければ映画でもどうですか。おごりますよ」
「よろこんで」
翠が微笑むと、春もようやく安堵したように微笑んだ。冷たげな横顔が少しだけ和らいで見えた。
映画であれば札幌駅かすすきの駅方面に向かうのがいいだろう。ということで、二人は地下鉄の最寄りである北24条駅に向かって歩き始めた。
「今日は車椅子じゃないんですね」
「あの日は体調が悪くて。今日は歩けるから使っていません」
「では、少し歩調をゆっくりめにした方がいいかな。僕、歩くの早いでしょう」
「そうしてくれると助かります」
「……いっそ背負うこともできますけど?」
「それはとても目立つのでいやです」
あの葬式ではタイトなブラックスーツ姿だった春も、今日は私服だ。スマートカジュアルとでもいうのか、薄手のニットに黒いボトムスとセットアップのジャケットを羽織っている。
黒い制服姿の翠と並んで歩いていても不自然ではない格好だ。
駅へと続く道を歩きながら、春が口を開いた。
「どんな映画が好き、ですか? ジャンルを指定してくれたら映画館で選ぶのが楽だから」
「映画ならアクションとかSF、あとはホラーが好きかもしれません。でも、けっこう色々見るんですよ。ミニシアター系もちょくちょく見ます」
「映画自体が好き、というわけか」
「そうなりますね。春さんはどんな映画が好きなんですか?」
「僕もわりと大雑把に見る方です。でも、北野武とかガス・ヴァン・サントとか、あとウディ・アレンが好きかな」
「けっこう渋い。でもたしかに好きそうですね」
「それは褒めてる? それともけなしてるの?」
「これから選ぶ映画によります」
「それは責任重大だ」
そんなようなやり取りをしているうちに北24条駅に到着する。
翠にはごうごうと唸る地下鉄の風が週末の匂いをさせている気がした。
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