第三話 紅雨前線

3/4
前へ
/40ページ
次へ
 花に降り注ぐ雨を見下ろしながら、七月を迎えた街を歩く。  大通公園の西側には、六月中旬から秋口まで、様々な種類の薔薇の花が鑑賞できるガーデンが設けられている。  傘をさした翠は花の中を踊るように抜けて、市街地の東西を長く貫く公園の東側へと急いでいた。  北海道といえども、七月ともなれば湿度も気温も真夏に向けてぐんと高くなる。  近年では、時には東京都内よりも札幌市街地の方が気温が高いなんてこともあるくらいだ。  幸いにして、今日は雨ということもあり、気温は平年並み。湿度だけが高くて息苦しさを覚えるが、我慢できないほどではなかった。  人通りが増えたあたりで南側の区画へ曲がり、オフィスビル群を抜け、適当な出口から地下街へと降りる。  札幌市街地には地下歩行空間や地下街が張り巡らされており、三路線ある地下鉄にそれぞれアクセスしやすいように繋がっている。  その中の一つである地下街ポールタウンにつながる通路を抜け、待ち合わせ場所としてメジャーな複合型商業施設の地下二階出入り口前へ到着する。  落ち着いた雰囲気のエントランス付近に視線を巡らせても、春の姿はない。  どうやらまたしても翠の方が早かったようだ。  携帯端末を確かめると十五時二十分で、待ち合わせの時間である三十分までにはまだ時間があった。 〈今つきました。奥の黒い柱の前で待っています〉  翠は短いメッセージを送ると、そのまま一番大きな柱の前に立った。  今日は環波春からの誘いに応じ、こうして市街地まで出かけてきたのだった。 〈週末、雨ならどこかに出かけませんか〉  そのような文面で、翠を外に誘う内容のメッセージが日曜の夜に送られてきた。 〈雨なら〉というなんとも不確定な条件つきの誘いであったが、金曜日の深夜から雨が降り出し、こうして土曜日に無事待ち合わせが成立した次第であった。  今日の翠は制服姿ではない。  黒い冬用のセーラー服姿で会って以来、春とはいつも制服姿の時に会っていたが、もう学校は夏服に切り替わっているし、今日は休みなのでわざわざ制服を着て出かけてくるのも妙な話だ。  だから、代わりに黒いワンピースを着て、夏用のカーディガンを羽織っている。いつもよりも丈の短いスカートが落ち着かないが、いつも通りの「黒」を選んだこの格好が一番しっくりくる気がした。  わざわざヒールのある靴と合わせて、メイクも少しだけ大人っぽさを意識したつもりだった。  背伸びなどする必要がない程度には垢抜けた美少女である翠だが、春の横に並ぶことを考えるとどうしても臆してしまい、身だしなみを気にしてしまう。  ――なんか間抜けだな、おれ。  そんな自分をどこか恥ずかしく思い、翠は一人焦れていた。  なにより、先日の映画館の後の出来事がある。  自分でも信じられないくらい馬鹿正直に気持ちを打ち明けてしまった。 『おれは近いうちに死ぬだけの女の子です。でも……だから、それまでの間、つきあってくれませんか? おれのこと、本当はどう思ってたって構わないから』  今思い出すだけで気が変になりそうなくらいだ。  恥ずかしい。もう逃げ出したくなるくらいに。ほんとうに、恥ずかしすぎる。  しかし、春はあの時逃げることもせず翠に向き合ってくれた。すぐに返事をするから、少し考えさせてほしい。そう言って、真剣に取り合ってくれたのだ。  もしかすると、今日その返事を翠に告げるつもりかもしれない。  状況からすると、おそらくそうだろう。わざわざ春の方から翠を呼び立てたのだ。それしかない。  ――もしかしたら、今日でお別れ、かもしれないな。  翠はぼんやりとそんなことを考えていた。  春は「葬式ゲーム」などに興じる変人だし、年上で人たらしで、とんでもなく綺麗な顔をしているのに、自分が吸血鬼だと打ち明けてくる始末で、今でも思考が追いつかないくらいの謎に満ちた人物だ。  本当に吸血鬼だとして、自分はどうしたらいいのだ?  十字架や木の杭、聖水やにんにくでも用意する?  ……どれも馬鹿げたことだ。春がなんだって翠には関係ない。どんな事情を抱えていようと春は春だ。  もう治らない病を抱えた自分を春が受け止めてくれたように、自分も春のことを、春が出す答えを受け止めよう。  そう思って顔を上げた時だった。 「ごめん。すこし待たせたね」  人混みを縫うようにしてやってきた春が、翠の前にいた。  相変わらず冷たげで恐ろしく綺麗な顔をしている。上背があり、前に立たれると少し怖いくらいだ。今日はゆったりとしたダークカラーのセットアップに、緩く結えた髪を垂らしている。  春の姿は目立つ。周囲の女性の視線が瞬間的に集中したような気がして、翠は気後れしたようになった。 「どうしたの。体調は平気ですか?」 「あっ……うん、全然大丈夫。今日は元気、です」 「そうですか。よかった」  そういって薄く微笑む春は、しかしどこか覇気がないように見えた。  目元が少しだけ疲れて見えるのだ。 「春さんこそ、大丈夫ですか。少し疲れていたりしません? 寝不足、とか」 「昼間だから。雨でもやっぱり少し、ね」  そう言って翠を安心させるように苦笑するが、それとはまた違う理由がある気がして、翠はほんの少しだけ春の事情が気掛かりになった。  だが、理由を追求することはしなかった。 「それじゃあ、行きましょうか。チケットはもう買ってあります。翠さんが嫌でなければですけど」 「チケット? どこへ行くんですか?」 「この上にある水族館です。小さいペンギンがそこそこいるみたいで、展示を見ながらコーヒーを飲んでもいいらしいですよ。どうですか?」 「……行きたい!」  春の提案に翠は目を輝かせた。 「オープンしてちょっと経つけど、ここの水族館は初めて。だから誘ってくれて嬉しいです」 「僕も上の階へ行くのは初めてです。お店のお客さんから小規模だけど雰囲気は味わえるよっておすすめされて。楽しめるといいんですが」  春はそう言って遠慮がちに微笑んでみせる。翠はそんな春の様子がいっそう愛しく思えた。 「楽しいですよ。春さんが一緒だから」 「……君はまたそういう……無自覚な殺し文句は禁止です」 「へ? なにが?」 「……なんでもない。行きましょう」  翠は春の言葉に頷き、二人は商業ビルの四階にある水族館のエントランスへと向かうため、エスカレーターに乗った。
/40ページ

最初のコメントを投稿しよう!

9人が本棚に入れています
本棚に追加