第三話 紅雨前線

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「春さんは……その、吸血鬼だって聞きましたが」 「はい」 「雨の日は、動けるというか……外に出たりして大丈夫なものなんですか?」 「そうですね。薄曇り程度だと無理だけど、今日くらいしっかり雨が降っていればおおむね平気、かな。それでも夜間よりは行動が鈍りますが。強い光に気をつけてさえいれば大丈夫です」 「……そういうものなんですか」 「イメージと違いますか?」 「えっ、いえ、そういうことじゃなくて……もし、もしも無理して出てきたんだったら申し訳ないなって」 「無理じゃないですよ。僕が会いたかったからこうして約束してもらったんです」 「……そう。そうですか」  臆面もなく恥ずかしいことを言ってのけるのは春も一緒ではないかと内心で考えながら、翠はかろうじて頷いてみせる。 「遠慮しなくていい。僕が前に君の病気について聞いたみたいに、知りたいことがあったらいってください。もちろん、急に噛みついたりなんてしませんよ」 「それは大丈夫だと思っています。……じゃあ、春さんについてはおいおい聞いていきます。まだ、知らないこといっぱいだし」 「そうしてください。あ、四階ですよ。来て」  春はそう言うなり、あっさりと翠の手をとってチケットカウンターへと歩き出す。  あまりにも自然で、さりげなくて。でも思っていたよりも強い力で。  翠は何も言わずにそれに従ってついていく。  春はウェブ予約をしていたらしく、チケットを発券すると、入り口の係員へ二人分を提示する。 「ペンギン二名お願いします」 「はい、かしこま――っふぐっ」  なんとか聞き流そうとしたのか、それともその瞬間に気づいてしまったのか、チケット係の女性スタッフがたまらず吹き出す。翠も同じ瞬間に笑い出した。  少しの間をおいて、春が慌てることなく訂正した。 「あ、まちがえました。人間のおとな二名です。お願いします」  いつも通りの極上の笑みを浮かべ、爽やかに挨拶しているが、翠もスタッフもそれどころではない。 「ど、どうして……はい、いってらっしゃいませ」  動揺を隠せないのはスタッフの方で、しどろもどろになりながらも半券を切ってくれている。  やっと気がついたのか、春は静かに付け足す。 「すみません。ペンギンが好きで、つい思いを馳せていたら自然とペンギン二名って言ってましたね。ペンギンの水槽に押し入ったりしませんのでどうか安心してください」 「へぶっ……」  ダメ押しだった。  翠とスタッフの腹筋を崩壊させ、春は無事に館内に入場を果たした。 「ねえ、急にバグらないで! だめだ、笑い死ぬ」  照明が落とされた館内で極力笑い声を上げないように堪えながら、翠は春の脇をつついた。 「……そんなにおかしいですか?」 「春さんってちょっと天然入ってます? やばいお腹痛い。おしっこ漏れちゃう」 「女の子が漏れちゃうとか言っちゃだめですよ」 「ペンギンに言われたくないですよ」  春に対する無意識なフィルターのようなものが破壊され、翠は少し気楽になることができた。  冗談も言うし、当たり前に失敗もする。  この人も自分と同じなんだ、と。  常設展示の「水の生物ラボ」を抜けて、上階へと昇る。  展示物を紹介するパネルを眺め、先へ進むと一つ目の大水槽が見えた。  青と緑色を基調とした水槽には様々な魚たちと水辺の生き物が展示されていた。  なるべく自然に近い状態にした水槽内の環境下で飼育された生き物がメインとなる展示だった。 「……きれい」  闇に浮かび上がる光景に、翠は思わず声を上げて見入っていた。  海藻の間を思い思いに泳ぐ魚たち。ゆらゆらと揺れる水に反射する光までもが美しく映えた。  隣に佇む春も大水槽の中の生き物たちを熱心に見つめている。  しばらく無言で観察した後、次のコーナーに足を踏み入れる。  博物館のような標本や模型展示に小水槽、またパネルなどがあり、歩きながら水生生物の生態や彼らを取り巻く自然環境について学習することができるスペースだった。 「……春さんはいつから札幌にいるんですか?」  シーラカンスの模型を眺めながら、翠はふと湧いた疑問を春に投げかけた。 「半年とすこし。まだそんなにこの街に来てから経っていないんです」 「そうなんですか」 「……前はもっと大きな本州の都市にいたんですが、やっぱり僕らにとっては北のほう……日照時間が短くて、人も少ない街の方が暮らしやすかった。だからここに来ました」 「そうだったんですか。東京とか、そっちのほうですか」  春は曖昧に微笑むのみだ。 「本当はもう少し北の方に渡るつもりだったんですけどね。……少し、やっておかなくてはいけないことができて。それで札幌に」  骨格標本の横を通りすぎ、小さな水槽を泳ぐ魚を見ながら、春は独白するようにそう打ち明けてくれた。 「やっておかなくちゃならないこと、ですか」 「そうです。僕にしかできない。落とし前、みたいなものかな」 「……それは危ないこととか、ですか?」 「……どうだろうね」  春の目元にさした影が少し暗さを増して見えたような気がして、翠は口を噤んだ。  やはり、春には人には話せない事情があるのだ。 「葬式ゲームなんてやっているのもそのため?」 「初めはそうだった」  壁に嵌め込まれた化石をなぞるように指で触れながら春がいう。 「僕は痕跡を探すつもりで、死人の集まる場所を彷徨きまわっていたけれど、いつの間にか手段と目的が入れ替わっていた。死者を悼むひとたちの中に混ざって、故人がどんな人間だったかなんとなく思いを馳せることそれ自体が楽しくなっちゃったんです。最初に会った時、変人だと思ったでしょう」 「……思った」 「自分でもわかっているつもりです。でも、自分には死んだひとを悼む資格がないから、せめて死者のために涙を流し、時に思い出話をして微笑みあう彼らをみて心をやわらげていた」 「少しだけど、わかるよ」 「本当に?」 「おれも、おれがいつ死んでもいいように、そのために他の子たちのセレモニーに出ていたから。それは死ぬための練習みたいなものだった、だから、春さんの言いたいことも少しだけわかるんだ」 「……翠さんは、やっぱり優しいですね」  春が寂しそうに微笑むのをみて、翠には何も言うことができなかった。  翠にとっての〈葬式ゲーム〉は自分の死後をシュミレートするためのものだった。  残された姉はどうなるのか、自分の死後も世界は続いていくのか、自分の存在は果たしていつまで人々の心に残るのだろうか。同じ年頃の子どもが死ぬたびにそんな想像を巡らせていた。  自分はなんて残酷なことをしているのだろうか。  それでも、どうしてもやめることなんてできなかったのだ。 「優しくなんかないですよ、おれ」  代わりに握られていたままの手を握り返し、引っ張っていく。 「ほら、上の階はいよいよペンギン水槽ですよ! 観たいんでしょう。行こう!」  フロアの中に設けられた飲食用の椅子やコワーキングスペースを抜けて、翠たちは上階へ続くエスカレーターに乗った。  エスカレーターを降りると、すぐ左手に水色のプールが見えてくる。  ペンギン用のプールコーナーだ。 「わ、いた! ペンギン! ちっさ」 「あれはフェアリーペンギンですね。あっちのはキタイワトビペンギン。今ちょうど飼育員さんから餌をもらっているようです。いい時間帯に来ましたね」 「へえ……なんかかわいいですね」 「そりゃ、ペンギンはかわいいに決まっているじゃないですか」  春は携帯端末を出して熱心に写真まで撮っている始末だ。 「いや、ペンギンもそうだけど、おれは春さんがちょっとかわいいなと思って。そんなにきれいな顔して可愛いものが好きとか、ギャップ萌え狙いかと……」 「はあ!? 僕なんかよりもペンギンたちを愛でてくださいよ」  揶揄ったつもりが、恥ずかしがるでもなく真剣にペンギンを愛でるように推してくる言動がまたおかしくて、翠はつい吹き出していた。 「また、笑ってるし……」 「だって、あんまり真剣だから。つい」  遂に恥ずかしくなったのか、春がすこし居心地が悪そうな表情になる。  その春と近くに泳いできたペンギンの姿を、翠も携帯端末で写真に収めた。 「ほら、春さんも笑ってくださいよ」  春は背後のペンギンに近づくと、無言でピースサインをして見せる。  その姿も翠はしっかり写真に収めておいた。 「うん、かわいい」 「もう勝手にしてくださいな」  観念した様子の春がひとりごちるが、気にしないことにする。 「夜になると照明が落ちて、夜間展示の状態になって、動物が寝ている姿とかも観られるんだって」  紹介パネルを読んでみると、夜間営業時間に合わせて展示内容が昼夜で異なることがわかる。  今は夕方で、まだ昼間の展示状態であるようだった。 「今度は夜に来るのもいいな」  春はやはりペンギンが好きなのか、次回の来館について思案しているようだった。夜であれば春も出歩きやすいだろう。  その時、自分はまた一緒にいられるだろうか。  頭をよぎった思いを追い払い、翠は目の前の光景に集中するよう努めた。 「あっちにはクラゲ水槽がありますね」  一通りペンギンを堪能したらしい春が翠を誘い、また別の区画へと足を踏み入れる。  そこは一番暗く照明が抑えられた場所であり、翠達の眼前には無数のクラゲがゆったりと揺蕩う青紫色の水槽が浮かび上がっていた。 「……いいな。クラゲ。おれは次生まれ変わるとしたら、人間よりもこういうもののほうがいい。きっと気楽な筈だ」 「クラゲはプランクトンの仲間ですから。自分で泳ぐ能力に乏しくて、海流に身を任せて浮遊しながら生活をしています。たしかに言われてみれば気楽なのかもしれないな」  翠の横で春がそう呟く。 「詳しいですね。水族館が好き?」 「本で読んだことがあるだけ。僕は映画館の方が好きです」 「おれはどちらかというと……うー、両方?」 「欲張りですね」 「むう。さっきはペンギン持って帰りたい、小さいやつなら一匹くらいばれないかもって言ってたくせにぃ」 「それはそれ、ですよ」  二人はそのまましばらく暗がりの中、水槽を眺めていた。  やがて展示を一通り見終えると、二人は館内に併設されたベーカリーでクロワッサンとコーヒーを頼み、ゆっくりとそれらを平らげた。 「この後はどうします」 「また映画館にでも行きますか?」  翠の提案に、春は少し考えるような素振りを見せたあと、ふと思いついたように言う。 「よければ、僕の家に来ませんか?」 「え? 春さんの、家?」 「映画なら好きなものをネトフリとかアマプラで選べますし。DVDも少しはあるけど。どうですか、映画三昧」  春の自宅。  思いも寄らない提案をされ、翠は内心で動揺した。  どうしよう。いきなり自宅にお邪魔するとか、いろいろ展開をすっ飛ばしている気がする。でも、春のことだ。なんてないのかもしれない。  自分ばかりがありもしないことを妄想して恥ずかしくなっているだけなのかも。  そうだとしたら実に馬鹿げているとは思わないか? 「いきなりご自宅にお邪魔してもいいもの?」 「ご存知の通り、僕はいきなり他人のお葬式にお邪魔しましたけどね」 「……そうだった。春さんの倫理観はぶっ壊れているんだった」  わざと口に出して言ってみせれば、春はなんとも意地悪そうに微笑んでみせた。  誘っているのか。だとしても、それがなんだ。  翠は腹を決めた。 「行きます。観ましょう、映画をいっぱい」 「それじゃあ、移動しましょうか」  地下鉄大通駅へと戻り、地下鉄を一駅分乗り継いで移動する。  あとは徒歩で豊平川沿いに位置するという春の自宅アパートにたどり着くことができた。 「シャトー豊平弐番館……」 「そうです。一番館がどこにあるのかはわかりませんけど」  とうとう家に着いてしまったことに気圧され、なんとなくアパート名を口に出してみると、春はそんな答えを返してくる。 「……ここが春さんの家」 「四階まで上がります。エレベーターを使った方がいいでしょう」 「……はい」 「うん、緊張していますね? うち、本当に何もないですから。お茶かコーヒーくらいしか出せませんし。だからそんなに固くならないで」  そういうことじゃない。  そう主張しようとしても口が上手く動かず、翠はもごもごとよくわからないことを呻くだけだった。  やがて四階に辿り着き、廊下を歩く。  春の部屋は角に位置しているようで、奥の扉の前まで辿り着いて立ち止まった。 「歩くの、疲れたでしょう。ここが僕の家です、どうぞ」  そう言って春は扉の鍵を開け、翠を招き入れた。
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