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第四話 Let the Right One Slip In
その部屋は翠にとって空虚にさえ思われた。
それは先程訪れたばかりの水族館を思わせる、夜と眠り――そして祈りのためだけにある部屋のようであった。
「春さんの部屋、本当にものが少ないんですね」
廊下からリビングに足を踏み入れた翠がそう口にする。
春の部屋には生活感というものがなかった。
生活に必要最低限な家具は揃っているものの、そこで実際に人間が生活しているという実感が湧かない――そう、なんの匂いも味もない料理を出されたときのような感覚がしっくりくるだろうか。
札幌に来て半年と少しだと春は語っていたが、それにしてもおかしい。
ほとんど使われた様子のないソファに春は脱いで手に持っていたジャケットをかけた。
「文字通り、はりぼての部屋だからです。僕が一応はふつうに生活しているんだって見せかけるためだけの、朝になるまでにただ眠りにつくためだけの部屋ですからね」
いたって当然だというように言って、春はゆるく結えていた髪を解いた。思いの外長い髪が肩に散らばる。黒い花びらのようだと翠は思った。
「翠さんも、楽にして。どうぞ座ってください」
「あ……はい」
「紅茶とコーヒー、日本茶がありますが、何か飲みますか?」
「えと、じゃあ日本茶で」
「了解。少し待っていて」
ダイニングに行くと、春は湯を沸かし始めた。
そのまま換気扇を回し、煙草を吸い始めたようだった。
翠は所在なさげに当たりを見回し、観察するしかない。
「モニターの下にDVDがある筈だから、何か観たいものがあったら選んでいてもいいですよ」
「わ、わかった」
「もし無ければサブスクから候補を探しましょう」
「はい」
テレビの下の棚を探る。確かにBlu-rayやDVDのソフトがいくつか揃えられており、そこには翠が観たことのあるタイトルも含まれていた。
未視聴のものを何本かを取り出し、見比べてみる。
ソナチネ、HANABI、ドールズ。これらは北野武監督作品だ。アウトレイジ。これは翠も観たことがある。日本人監督の作品では他に岩井俊二の初期作も揃えられていた。
エレファント、ミルク、永遠の僕たち。小説家を見つけたら。マイ・プライベート・アイダホ。ガス・ヴァン・サント作品。
ウディ・アレンの作品も揃えられているようだ。それとウォン・カーウァイの映画がいくつか。
他にも翠が知らない古い作品が複数あった。
些か偏ってはいるかもしれないが、春はどこか感傷的で叙情的な作風を好むようだ。
……うん、悪くない。翠は素直にそう思った。
孤独な時、春は一人でこれらの映画を観て過ごしているのだろうか。
「……なんか、いいですね」
「何かいいました?」
「いえ。なんにも……おれもそっちに言って煙草を吸ってもいい?」
「どうぞ。気が利かなくてすみません」
翠は立ち上がるとダイニングに移動する。その際、やけに機械的な箱――実験用の冷蔵庫のような家具が目についたが、あれは一体なんなのだろうか。
やはり道具の少ないダイニングに二人並んで煙草を吸う。
換気扇が回る音だけが響いているが、気まずくはない。
「やっと一服できました。よかった」
「水族館は火気厳禁ですし、最近では喫煙所も限られていますからね。世知辛い」
春はそう言って先に吸っていた煙草を灰皿に押し付ける。
湯が沸いたようで、手際よく日本茶とお茶請けの羊羹が用意されていく。
翠が一服している間に、その翠当人をもてなす準備が整ってしまったようだ。
「リビングに運んでおきますから、吸い終わったら来てください」
「あ……すみません。すぐ消します」
「ゆっくりでいいですよ」
ほとんど吸い終えていた煙草を消して、翠もリビングへと戻る。
ソファの前に据え付けられたローテーブル。そこにお茶とお菓子が置かれていた。
春はテレビの前でDVDをピックアップしている。
「どうぞ、座って」
「はい」
翠は素直にソファに腰をかけた。
どうにも動きがぎこちないのは言わずもがな緊張によるものだ。
「何か観たいものはありましたか?」
「あっ、ええと……じゃあ、スタンド・バイ・ミーが観たいです。それか、マイ・ブルーベリー・ナイツ。でも春さんが見飽きているなら、ネトフリで何か選ぼう?」
「いいですよ。そこにあるのは僕のオールタイムベストですから、どれでも何回でも大丈夫なんです。それに翠さんと観たら、また新しい発見があるかもしれない」
春はそう言って子どものように微笑んだ。無防備な笑みだ。
ここは彼の自宅で安全圏だ。だから安心して、いつもよりも幾分か気が緩んでいるのかもしれない。初めてみる類の笑顔だった。
……やめてよ、もう。
翠は思う。これ以上そんな顔みせられたら、もっと好きになってしまうだろう、と。
「あ、これもおすすめですよ。ノッキン・オン・ヘブンズ・ドア」
「天国ではみんなが海の話をするんだぜ」
「知っていましたか」
「あれはおれのための映画です。何度も観た」
「……ちょっと不謹慎だった。ごめんなさい」
ノッキン・オン・ヘブンズ・ドアには医師から余命宣告を受け、末期病棟に入院をする二人の患者が主人公として登場する。その一人は脳腫瘍を患っている。翠と同じだ。
二人は意気投合して病院から抜け出し、マフィアの車を盗んで海を見に行く人生最後の旅に出るのだ。
「いいんですよ。でも、おれにはおあえつら向きだと思いませんか?」
「それは、確かに」
「おれも天国の話題にはついていきたいもの。だから、海もちゃんと見に行きました」
「もしかしてアプリのプロフィール画面の……」
「そうです。あの背景は実際におれが見た風景を撮ったものです。綺麗だったんだよ、夜明けの海。これでおれが死んでもみんなの話題についていけるって、実際少し安心した。映画の中の作り話だとしてもね」
薄く微笑んで肩をすくめてみせる。
春はそんな翠を黙ってみていたが、やがて何本かピックアップしたDVDを抱えて戻ってきた。その中にはノッキン・オン・ヘブンズ・ドアも含まれていた。
「……僕も翠さんの話題についていきたいですからね。それに僕は夜明けの海が見られないから、君の話をもっと聞きたい」
「そんな話なら、いくらでも」
春は翠の隣に座って、モニターの電源を入れた。
それからスタンド・バイ・ミーを観た。
テディの父親についてゴミ捨て場のマイロが罵倒する場面で翠は憤慨し、パイ食い競争の場面では二人して登場人物と一緒に笑い合った。
死体を探す旅から街に戻ってきた少年たちが一人一人別れていくシーンで、翠は静かに涙を流した。
『私はあの頃に勝る友人をもう二度ともったことはない。誰でも皆、そうなのではないだろうか?』
主人公がそう書きかけの著作を締め括ったところで、曲が流れ始め、物語は終わる。
死体を見に行く冒険を共にするような友人。
もしかすると、翠にとって春はそのような友人なのかもしれない。
葬式に忍び込んで死体と対面する。これもある種の通過儀礼にすぎないのかもしれない。だとすれば翠と春は戦友のようなものだろう。
「なんかこの映画、おれと春さんみたいでした」
翠は目元をぬぐいながらそう言って微笑んだ。
「そうですか? ……まあ、たしかに葬式ゲームなんてしていますし、ね。死体を見に行く冒険という点では同じかもしれないな」
「……ゴーディ少年と春さんは似ていますね。おれが当然クリスです」
「ちょ、僕がクリスでゴーディは翠さんですよ! 僕は、ケツっぺたにでかいのを撃ち込んでやるなんて暴言吐きませんもん。それに年長ですし」
主人公の少年ゴーディと、その親友で兄貴分であるクリス。
スタンド・バイ・ミーは彼らを含む四人の少年が登場し、ゴーディとクリスが少年期を平坦な戦場で成長し、生き抜く話でもある。
死体を探しに出る旅は大人になるための通過儀礼であり、旅の前と後ではもう元には戻れなくなっている。
「でも、知ってた? 最後の銃を構える場面、原作では逆なんですよ」
「そうなんですか? それは知らなかったな」
「クリスが、俺のそばにいてくれと祈りながら、拳銃を構えてエースと対峙するんです。だから映画とは立場が入れ替わっている」
「それは……コインの裏と表のようですね」
「そうです。だからどっちでもいいってことでひとつ」
「なるほど。それならそうしておきましょうか」
二人はそれから何本も映画を観た。
コメディからダークなサスペンスまで、DVDやサブスクリプションから選択したものをざっくばらんに観て、笑いあい、涙し、ときに文句を言ってけなし、最後には喝采した。
ミステリ作品を見ている途中にはあれやこれやと犯人や推理を披露し、ラストシーンの是非について議論を交わした。
映画を観終わる頃には、翠もすっかりリラックスした体勢になって、最初の緊張感はどこかに飛んでいっていた。
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