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そいつが頭上に潜んでいることに気づいた瞬間。
春は咄嗟に翠を背後に突き飛ばし、叫んでいた。
「逃げて! 早く!」
翠は動かない。違う。動けないのだ。
襤褸を纏った相手が春の首筋を狙い、異様に尖った指爪を突き出してくる。
紙一重で躱し、躊躇することなく凶爪を掴み上げる。鋭い痛みが走る。切れた手から血が溢れるが、構わない。
「春さん!」
「いいから、早く! 走って――振り返るな!」
ようやく我に返った翠が走り出すのを見届け、腕を離し、ふらつくようにして間合いを取る。
眼前の怪物が小さく呻き声を上げた。
濃い血の匂いで頭がくらくらする。
ここしばらく血を飲んでいなかったせいで、こちらの理性まで吹き飛んでしまいそうなくらいだ。
それほどまでにひどい血臭が辺りに満ちている。
それでも、なんとしても時間を稼がなければならない。翠が充分な距離を逃げ切るまで保てばそれでいい。
「……僕を殺したいのならそうすればいい」
立ち上がって、眼前の怪物を見据える。
「僕の血や肉を食べて君が満足するのなら、それが僕の贖いだ」
血で染まり始めた両手を掲げ、怪物に向かって差し伸べる。
「君なんだろう、ルリ。こんなタイミングで出くわすとは思っていなかったけれど」
『――――!?』
春の行動を予想だにしていなかったのか、〈雨男〉がぐるる、と呻き、一歩後退る。
それとも――あるいは元の名前を呼ばれたのが効いたのか。
「僕を殺せばいい。ずっと恨んで憎んで……僕のことを君も探していたんだろう」
追い討ちをかけるようにもう一歩踏み出し、〈雨男〉――ルリを挑発する。
「僕も君を探していた。君をそんなふうな怪物にしたのは僕なのだから……せめて僕が君を葬るべきだと思っていた。でも、できないよね。そんなこと」
実際に再会してしまえば、決意など跡形もなく揺らいでしまった。
爛々と燃える憎しみの炎を瞳に宿した怪物。
そう成り下がったかつての片割れの姿を目にした途端、春は全てを諦めて死の安寧を受け入れようと動いてしまっていた。
たとえそれが正しくない選択で、自分にとって楽な道を選ぶ最低の行いであろうと。
『――ぅ――ぐっ』
自らを差し出すように隙を晒した春を前に、〈雨男〉は頭を押さえて悶えていた。
『は、ル……ハル、はる。春。ゆるさ、ない。ぜったいに、ゆるさない!』
そう叫ぶと、〈雨男〉は春に向かって激しく斬りつけ、そのまま再び路地の闇へと消えてゆく。
胸から腹にかけて斬られた傷口が熱かった。
昏い熾火に燃える瞳が、最後の瞬間は泣いているように滲んで見えた。
「なん、で――」
殺されも、喰われもしなかったことに衝撃を受けたのは春の方だった。
「――ルリ」
そのまま血にまみれた壁に凭れ、倒れてゆきながら、春はかつての恋人の名を呼んだ。
切られた胸腹の傷口からは血がごぼりと溢れ始めていた。
「春!」
……どれくらいそうしていただろう。
誰かが自分の名前を呼び、必死に体を揺さぶっている。
目を開けるのも億劫なのに、まったく。
こんな余計な真似をする人間はこの界隈でただ一人と決まっている。
「なに、してるんですか……殉哉、くん」
「なにしてる、じゃない。〈雨男〉が出たと聞いて飛び出してきたら、春がこんな殺人現場で死にかかってるんだ。大声のひとつくらい出るさ。それで〈雨男〉は?」
「……残念、逃げ、ちゃいました、よ」
「逃げた? まあ今は好都合か。警察が来る前にここから――」
壁に凭れた春の傷を検分すべくしゃがみ込んだ殉哉は、傷の状態を見て顔をしかめた。
「治癒が遅い。常人には叶わない自己治癒も怪力も吸血鬼本来の能力のはずだろ。どうして使えていない」
「……血、しばらく飲んでなかった、から。だから、僕、ちょっと弱っていまして、ね」
このままだと死んじゃうかも、と零せば、殉哉が襟元を掴み上げてくる。
「なんで血を飲まなかったんだよ」
「……気分じゃ、なくて?」
「ふざけるな。言えよ。いや、言わなくても分かる。あの娘のせいか? 怪物ふぜいが色恋にかまけて、バカじゃないの」
「だって、翠さん、僕なんかのこと好きだって……言うんですよ。血と肉を喰らう怪物でしかない、僕のこと……だか、ら、これ以上汚したく、なくて」
「だから吸血鬼が血を飲むのを止めていたって? そんなことをしたって何も――」
「でも、僕、が人間みたく、振る舞っているあいだ、翠さんは幸せそうだった、から。だから、いいんです……」
そこまで告げて、急速に視野が暗くなっていく。
体が悲鳴を上げていた。限界が近い。
〈雨男〉――ルリの一撃は重いものだったが、本当にこれで死んでしまうとは。
本当はもう少し、約束通りあの娘の最後までの時間を一緒に過ごすつもりだったのにな。
……そう思うと一人でに笑いが込み上げて、春は咳き込みながらも笑声を上げていた。
「このバカ!」
そう怒鳴ると殉哉は春の襟元から手を放し、自分が携帯していたナイフを手に取った。
そのまま服の袖を捲り上げると、晒された手首を縦に切り裂いていく。
傷口からあっという間に血が滲み、溢れ出す。殉哉はその腕を春の口許に持ってきた。
熱い血が頬や唇、そして口内に滴る。
どくん、と春の鼓動が跳ね上がった。
「なん、の、つもり……」
「いいから血を飲め。死にたくないなら早くしろ」
「でも……僕、は」
「春はこっち側の存在、お前が居ていいのは化け物の側だろ。今さらになって人間ぶるな。お前はもう何をしたって元には戻れない怪物なんだよ。わかったらさっさと血を飲め!」
ぼたぼたと口許に血が注がれる。文字通り、殉哉の生き血が。
小さく呻いて注がれた血を飲もうと試みるが、上手く嚥下ができずに咽せるだけだった。
ルリの与えたダメージは思いの外大きかったようで、春の肉体は回復を試みることすら困難になっていた。
注がれる血を飲み干すこともできず、ただ口許を汚すだけの春を見下ろし、殉哉は「ちっ」と舌打ちをする。
そのまま自分の腕に噛み付くようにして口内に自らの血を含むと、殉哉は春に深く口付けてきた。
血を飲み下すように舌先で春の口内をこじ開け、血液を流し込む。
呼吸を奪うような甘ったるいキスのせいで、春は嫌でも流し込まれる液体を飲み下すしかない。
「……ふ、……く、殉哉くん、なに、を」
「黙れ」
もう一度、唇が重ね合わされ、血を流し込まれる。春が飲み干すまで唇を塞ぎ、舌で嚥下を促される。
「……んっ」
殉哉はそうして何度か春に血を与えた。
一口ずつ血を飲むたびに体内が熱くなり、春は傷が癒えていく感覚を覚えた。
やがて明滅していた視野が戻り、どうにか四肢に力が入るまでになった。
「殉哉、くん……もう、いいから。もう大丈夫、です」
「あっそ。おれももうそろそろ限界。すぐ止血するからいいけどね」
殉哉は口許を拭うと腕をきつく縛って袖を下ろし、春の肩に手を貸して立ち上がらせた。
「笑える。おれもきみも血まみれだ。このままだとこの現場の犯人にされちゃうな。だからとりあえずはさっさと逃げよう」
「……逃げるって、どこへ」
まだ思考は明瞭さを欠いたままだ。身体も重い。
それでも問うた春に対して、殉哉は不敵に微笑んでみせた。
「おれの秘密の隠れ家のひとつさ」
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