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流れ落ちた血穢れが湯に溶けながらタイル張りの床を伝い、排水溝へと吸い込まれていく。
自分自身の血と殉哉の血。
混ざってしまえばそれらはもうどちらのものとも知れなくなる。
市内にいくつかあるという殉哉の隠れ家のひとつはススキノの路地裏にある安アパートだった。
外から見ればその建造物は今時珍しいほどに古く、ほどよく朽ちていた。しかし外見とは違い、室内はリノベーションを経て新築同様に整えられている。
殉哉の部屋には人一人が最低限休めるように設えられた寝台と、着替え等の消耗品が備蓄されていた。
そこに春を匿うと、殉哉はまずは証拠隠滅と言ってシャワーを浴び、それを春にも勧めたのだった。
浴室の鏡に映る自分の裸体には、いくつもの傷が残っていた。
吸血鬼になる前についた傷。吸血鬼になった時についた傷。それから、さきほどルリにつけられた傷が。
「僕は……また、君に何もしてあげられなかった」
鏡に映った傷口に触れてみる。
あの場から〈雨男〉――ルリが逃走した理由はわからない。
でも、あの時のルリは泣いているように見えた。
そうだとすれば自分はまたあの子を泣かすようなひどいことをしたのだ。
いつまで経っても変わらない、変われない自分がここにいる。
「……ほんと、嫌になる」
シャワーを頭から掛け流し、春はしばらくそのまま、湯を浴びたままでいた。
浴室には水音だけが響いていた。
「……お風呂、助かりました」
「別にぃ。血だらけでそこら中うろつかれても困るだけだし。っていうか春、髪乾かしてないじゃない。やったげようか?」
「……いらないよ」
言うが早いか、洗面所からドライヤーを取り出してきた殉哉は一つしかない寝台の上に座るよう春を促した。
断るとまたやるやらないで揉める羽目になるため、春はおとなしく寝台に腰掛けた。
その後ろに膝立ちし、殉哉がドライヤーを春の髪に当て始めた。慣れた手つきだった。
櫛で髪が梳かれ、生暖かい微風が濡れた髪を乾かしていく。
「……本当に、変な殺人鬼」
「殺人鬼とかめちゃ蔑称じゃん。ちゃんと名前で呼んでよ。というかおれが命の恩人なことを春は忘れないように。ま、結果オーライだからいいけどさ」
言葉とは裏腹に春の髪を梳く殉哉の手つきはどこまでも優しい。
濡れそぼっていた髪があっという間に乾かされてゆく。
「それは、悪かったと思ってますよ」
「悪かった、じゃないだろ。ほら」
殉哉は意地悪く春に言葉を促した。
「……ありがとう」
「そう、それでいいんだよ」
「その……君のほうは大丈夫なの。腕、とか」
「それは平気。風呂場で縫って閉じたし、まあ後でなんとでもなるから」
「……そんなもの、ですか」
「そ。まあ、春が気にすることじゃない」
「……はあ」
「これでよし。髪もだいたい乾いたよ」
ドライヤーのスイッチを切り、立ち上がった殉哉が洗面所へ道具を戻しにいく。
春は髪を掻き上げると、片手でズボンのポケットを弄ろうとして、バスローブを借りていたことに思い至った。
先ほどまで着ていた服は洗濯行き――というかほとんど駄目になってしまったし、この分だとポケットに突っ込んでいた煙草ももう吸えない状態になっているだろう。それにいつの間にかライターが無くなっていた。
自分と同じ状況の殉哉が煙草を持っているかどうかはわからない。
溜息をつくと、宙を仰ぐ。
室内に時計がないので、ベッドサイドに置いていた携帯端末を手にとり、時刻を確かめる。深夜一時を回ったところだった。
確かめたいことは時刻だけではなかった。時間以上に重要なことが他にあった。
春の携帯端末にはメッセージがいくつも届いていたし、アプリを介した通話機能への着信記録が何件も残っていた。
言わずもがな、翠からのものだ。
翠はあれからどうしただろう。逃げ切れたことは着信記録からも分かりきったことだが、彼女は今どうしているのか。
ひどく恐ろしい思いをさせてしまった上に、逃げろといったきり何も音沙汰を入れていない。
心配し、取り乱したりしていなければいいが。
翠は気丈な少女ではあるが、それがもとで病を悪化させたりでもしたら、今度こそ申し訳が立たなくなってしまう。
「あ! なに、携帯弄って。彼女に連絡ぅ?」
「悪い? 心配させてるんだ、当たり前だろ」
「……ふうん?」
春が当然だとばかりに言い捨てると、殉哉はやおら機嫌の悪い顔になり、春の手から無理やりに携帯端末を抜き取ってしまう。
まだ完全に体力の戻っていない春は殉哉の素早い身のこなしについていくことができない。
「ちょ、それ返して!」
「いやだね。それに春はまだ体力も気力も回復してない。あの娘のことは後で考えなよ」
そう言って携帯端末を部屋の端へ放る。
それを取り返そうと身を乗り出した春を押さえつけ、覆い被さるようにして、殉哉は春の体を寝台に押し倒していた。
強い力で腕を抑えられ、身動きが取れなくなった。
「おい! なんのつもりッ」
半ば怒鳴りかけて起きあがろうとした春の唇が塞がれる。
深く、そしてきつく口付けされ、口内をぐるりと舌で撫ぜられる。
そうして春の内側を味わいつくすと、殉哉がそっと顔を離した。
「……血の味だけじゃない、おれとのキスも覚えておいてよ」
「な……」
春の顔を間近から覗き込みながら、殉哉が切望めいた台詞を吐く。
春はその灰色の瞳を無感情に見上げた。
揺らいでいる、と思った。いつもは揺るぎのない殉哉の双眸が、今は。
「どうして」
問いかける春の声は冷たく、薄情でもあった。
「好きなんだ、きみのこと」
「……いつから」
「初めて殺人現場で見かけてから、どうしようもなく」
「……そんなの、まともじゃない」
「それは春もだろ。だから、きみを追う内に〈proof〉で働いていることを知って、お店にも通い始めた。きみの作るお酒、どれも美味しくて、きみのことをもっと好きになった」
「僕は殉哉くんのことを好きにはなれません」
「知ってる。知ってた」
残酷にも春が答えれば、その首に殉哉の両手がかけられる。力は籠っていなかった。
「首、締め殺すなら今ですよ」
「……しないよ。そんなこと」
殉哉はそのまま春の肩口に顔を埋めた。
「できないんだ」
「それなら、どうして僕を助けたりしたの」
殉哉の頭に手で触れ、幼子をあやすように撫でてやりながら訊く。
「まだ助けたとは言えないだろ」
「……どういう意味」
「最近の春は殆ど血を吸っていない。所謂エネルギー切れの状態だろう? それをおれが解決してあげるって言ってるんだよ」
「僕はもう誰の血も吸わない。誰も怪物に変えたりはしません」
春は他ならぬ自分自身に誓った言葉をきっぱりと口にしていた。
いつの間にか顔を上げた殉哉がこちらを見ていた。その顔には悪戯めいた笑みが浮かんでいる。
「それも知っている。きみはおれとは違って、もう誰のことも傷つけないと決めている。わかってるよ。でも、なにも血を吸うだけが精気を得る方法ってわけじゃないだろ」
お前のことはお見通しだとでもいうように殉哉が言う。
自分の弱点を突かれたような何とも居心地の悪い気分になり、春は不機嫌を隠さずに顔を歪めた。
「……なにそれ。僕に君を抱けってこと。それとも君が僕を抱きたいって話? そうすればここから出してくれるって? 馬鹿言うな」
皮肉げに言ってやると、殉哉はどこか寂しそうな目をして頭を振った。
暖かな手が頬に触れてくる。
「べつにどっちだって構いやしないさ。おれは春が治れば関係ないね。そうすれば今度こそ〈雨男〉を殺せる。二度目の失敗はない。そうだろ?」
殉哉の言葉は哀願であり、深淵からの誘惑でもあった。
――どっちだって関係ない。そうだ。
自分が血を吸えば相手は怪物と化してしまう。とはいえ、言って翠のことを考えるともう誰かの血を飲むのはごめんだった。
春は腕に力を込め、体重をかけて殉哉と体勢を反転させ、殉哉をシーツの上に組み敷く形になった。
殉哉の胸板に春の黒髪が零れ、濡れた花びらのように散っている。
「僕は君を好きにはなれないし、ならない。それでもいいんですか」
「いいよ。春になら構わない」
殉哉は柔らかく微笑む。
どうして。
どうして、そんなにも真っ直ぐに笑えるんだよ。
憎しみにも似た感情が腹の底から湧き上がってくる。
憎悪。違う。これは――渇望。空腹と同じ類のものだ。
春は殉哉の首を抑えつけると、喉笛を噛み切ることもできそうなゼロ距離まで顔を近づけて囁く。
「……言っておくけど、殉哉くんが悪いんですよ。僕はこの方法が嫌いなんだ。君のことも僕は……だから痛くするし、手加減はできない」
「おれはそれでいい。何度だって言うけど、春とならなんだって構わないんだ」
相手を誘惑して堕落させんとする悪魔のように、殉哉は微笑んだ。
「春の欲望も絶望も何もかも、おれが吸い取ってあげる」
だから、きて。
その言葉を聞き届けた春が、殉哉に覆い被さり、その夜着を剥ぎ取ってゆく。
掻き抱いた腕の中で、殉哉が低く笑った気がした。
好きだと囁く声には聞こえないふりをし、春はただ貪るように青年の白い肌を蹂躙した。
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