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第五話 黒と夜
『〈雨男〉――新たな犯行か? 九人目の犠牲者』
『札幌連続殺人、新たな被害情報』
『猟奇的犯行現場に残された血痕。三つの疑問点』
『事件現場に第三者の存在の可能性。殺人鬼には協力者が?』
ネットニュースの見出しにはいずれも物騒なニュースが並んでいる。
テレビをつけても民放のニュース番組はほとんどが事件に関する報道を続けており、陰惨な内容ばかりが連日報じられていた。。
リビングで朱美が見ている朝のテレビ番組もおそらく殺人事件について報道しているようで、微かな音声が翠の寝室にも漏れ聞こえてくる。
翠は自室のベッドに寝転がり、布団を被った状態で携帯端末を眺めていた。
〈連絡が遅くなってごめんなさい。僕は無事にあの場から逃げることができました。翠さんは大丈夫でしたか? 驚かせてしまったと思う。体調に影響がないように、よく休んでください。明日、落ち着いた頃にまた連絡をします〉
あの夜、明け方近くになって送られてきた春からのメッセージだ。
実際、次の日には連絡が来て、翠は春と電話で話すことができた。無事を確認したときには安堵から思わず涙が零れてしまった。
春の安否はなによりも重要な事柄で、それを確認できたことはよかった。
だが、あの日の恐怖感をまだ拭いきれない自分もいるのだ。
目を閉じるとあの凄惨な光景が思い出されてしまう。
血と肉の塊となった誰かの姿。赤黒く塗り潰された殺人現場。
そして、他ならぬ自分自身の記憶が翠を苦しめていた。
あの時、春に「逃げろ」と言われ、自分はその通りに従った。そうするしかなかったからだ。
……でも、春のことをあの場に見捨てて、おれは一人で逃げたんだ。
悔しくて情けなかった。申し訳なくもあった。
もし春が無事で済まなかったとしたら、自分はどうしていただろう?
そういう思いが胸につかえて取れなくなっていた。
走って、懸命に走って。ようやく人の姿が見え始めたあたりでコンビニに駆け込むと「誰か人を呼んでください。警察に通報してください」と必死に訴えた。
ところがいざ警察が駆けつけると、現場にはもう誰の姿もなかったという。
元の通り、ただ奇妙な死体だけがそこに置き去りにされていた。
事件現場の目撃者となってしまった翠は聴取に時間を取られ、心配した朱美が警察署まで迎えにきた頃にはほとんど憔悴しきっている状態だった。
その翌々日である月曜日から学校を休んで、今日で三日目になる。
朱美は翠にとってよっぽどショックな出来事であったのだろうと理解を示し、翠の欠席には何も言わないでいてくれた。
普段は翠が一人で行く病院にも付き添ってくれたくらいだ。
「……みんな、おれに優しくしすぎ」
布団の中でそっと呟く。
朱美も、そして春も翠に対してはとても優しかった。
学校の先生や友人、病院の担当医や看護師さん等、もちろんそれ以外の人もそうだ。
それなのに、そういう行為が少し辛くもあった。
気を紛らわせようとアプリを起動し、春とのやり取りの記録を呼び出す。
……春さんは本当に吸血鬼なんだ。
あの夜の春を思い出すと、映画館でデートをした日の春の告白が腑に落ちる気がした。
春は翠が襲われる前に動き出していた。
それに殺人鬼が襲ってきた時も、あの人間離れした動きに遅れをとることなく受け止めていた。少なくとも春の身体能力は人間のそれを凌駕している。
ほんの少し垣間見ただけだったが、彼はやはり人外の存在なのだと思い知らされた。
翠にとって、そんなことは関係がなかった。
春がなんであれ、この気持ちは変わらない。それは事実だ。
けれども、春はどうだろう。翠に自分の本性の一端を見せてしまって、どう感じているのだろう。
……怪物。ひとではない何者か。
翠たちを襲ってきたのはそう呼ばれるものだった。人間とは呼べない存在。
もしも春が自らをそう貶め、自分もあちら側だと思っているなら――。
それを放っておくことはできないと翠は思っていた。
「翠、聞こえてる?」
ドア越しに朱美が呼びかけてきた。会社へ行く時間なのだろう。
「私、もう出るけど、何かあったらすぐ連絡しなさいよ? それとお粥作りおきしておいたから食欲がなくても昼は食べなさいね」
「……はい」
朱美に聞こえるように大きめに返事をする。
返事があったことに安堵したかのような間があり、朱美がもう一言声をかけてきた。
「私ね、あんたに彼氏ができてよかったなって思ってた。それは今もそう。前よりも明るくなったし、前向きになってくれた。それに毎日楽しそうだし。それが嬉しいの。だから……何を悩んでいるかはわからないけど、あんたにとっても相手にとってもいい方向に行動してほしい。そういう選択をしてほしいって思ってる」
「姉さん……」
「じゃ、仕事行ってくるわ。晩御飯は一緒に食べましょう」
そう言って、廊下を歩く気配があり、玄関のドアが閉められ、外側からロックされる音が聞こえた。
「……ありがとう」
姉がいなくなって初めて感謝の言葉を声に出すことができた。
なんと言っていいのか翠にはわからなかったのだ。
朱美はマンションのエレベーターの中でようやく一息をついた。
手に持っていた紙――翠の精密検査の結果を握りしめていたことに気づいて、それを通勤用の鞄にそっとしまった。
翠の容体を示す数値はここ最近で一番悪かった。はっきり言って最悪だった。
涙が出ないように堪えて外を歩き始める。
「あと二ヶ月、というところでしょうか」
翠の主治医の宣告が脳裏に蘇る。
「いずれにせよ、お姉さんも覚悟をしておいてください。翠さん本人は落ち着いていて、僕の宣告を受け入れているみたいでした。でも、それでも絶対に周りのサポートが必要になる時がきます」
何が宣告を受けて容れている、だ。
そんなもの、受け容れなくていい。泣きながら否定してくれた方がまだマシだ。
翠だってもっとわがままに振る舞っていい筈だ。
……私が翠にできることはその最後のときまで、彼女のわがままを受け入れることだけだ。
きゅっと拳を握りしめ、朱美は地下鉄改札口への階段を降りていった。
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