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川から昇ってきた夜の匂いが、いつの間にか窓を開け放った部屋を満たしていた。
とうに日は沈み、あたりには宵闇の帷が降りている。
春は漸く起き出し、着替える前にシャワーを浴びた。
次第に思考も明瞭さを帯び、半分寝ぼけていた状態から覚醒してゆく。
今夜の仕事は午後十一時からだ。家を出るのは三十分前。時間にはまだかなり余裕がある。
春は灰皿を持ってベランダに出ると、煙草に火をつけた。ほどなくして紫煙が上がる。
今日は夜になっても気温が下がらず、部屋の中には昼間の熱が蟠ったままだ。ベランダに出てもさほど気温が変わらない。
「……夏だな」
煙草を燻らせながらぽつりと口にする。
七月を迎え、季節は初夏から真夏へ移ろうとしている。最近は雨の日も減り、いよいよ夏本番へ向けて気候が上向きに変わり始めていた。
春にとって、夏は日照時間が長く、また雨の日も少なく、一年でもっとも過ごしにくい季節だ。
特に最近は気候変動の影響なのか、昔よりも夏が暑く、長くなっている気がする。
地球温暖化により北極圏では海氷が溶けているというが、春だって溶けてしまいそうな気にさせられているのだ。
「あっつい……」
げんなりとしながら夜空を見上げれば北斗七星を含むおおぐま座が目に入る。
夏の大三角形とやらはどれか分からなかった。特に天体ファンというわけではないため、そんなことは春にとってはどうでもよいのだが。
翠であれば星についても詳しそうな気がした。
今度会った時にでも訊いてみようと思いつつ、一昨日のことを振り返る。
翠は「おれの寿命、あと二ヶ月くらいだってさ。医者からそう言われたよ」と春に打ち明けてきた。
彼女の余命については最初のデートの時に翠が言った三ヶ月という話で覚悟はしていたつもりだった。それから一月ほど経過しているため、一昨日の翠の発言は妥当なものだと言えた。
「あと二ヶ月。七月と、八月の終わりまで……か」
けれど、ああして眼前に存在する翠の口から言葉を突きつけられた今は以前とは違っていた。
憤りはない。だけど、寂しさや苦しさが混ざった言い表しようのない気持ちが胸中を渦巻いている。
儚いものだ。人間の命――そうではない、あの子の命が。
最後まで一緒にいる。そう誓った。間違いではない。嘘偽りもない本音だ。
しかし、自分は本当に最後まで彼女の隣にいられるだろうか?
弱っていく翠を目の前にしたら、逃げ出してしまうのではないだろうか。
それとも、ルリのときと同じような過ちを犯してしまうのではないか。
自分がまともでいられる確証はなかった。だが、翠のことを大切に思うのならば、彼女の願い通りにいつもの〈環波春〉として寄り添ってやるべきだ。
春はとっくに煙草を吸い終えていたが、そのまましばらくベランダで夜風に当たった。
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