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第六話 DArkSide
「――っちぃ!」
飛び込んできた人物の一撃は――だが、浅い。到底致命傷には届かない。
ナイフを弾き、翠を捕まえたまま〈雨男〉が間合いをとった。
『なん、の、つもりだ!』
「それはこっちのセリフさ。その娘に用があるのはきみだけじゃあないんだよ」
翠が恐る恐る目を開くと、眼前には見覚えのない青年の姿があった。
ボディピアスで飾られた耳に、黒い髪を靡かせた精悍な顔立ちの青年。どこか春と重なる面影のある闇色の瞳。長身痩躯、春よりも上背のある男だった。
「はろー、翠ちゃん。まだ生きているよね?」
青年の呼びかけに、翠はかろうじて頷いてみせる。
しかし、助けてくれと、そう懇願することはできなかった。
青年が放つ殺気は翠を押さえ込んだまま対峙する〈雨男〉のみならず、翠自身に対しても向けられているように感じられたからだ。
「そうそ、いい子。弾みで殺しちゃうといけないからせいぜい大人しくしていてよ」
言うが早いか、青年が再度深く踏み込む。
加速するようにしてあっという間に〈雨男〉に肉薄すると、鋭い刺突を繰り出す。
〈雨男〉が小さくうめいてよろめきながらそれを躱す。
幾度か、翠には正確な回数すら数えられなかったが――攻防が繰り広げられた。
〈雨男〉の振るう凶爪を掻い潜りながら青年がナイフを振るう。
力は〈雨男〉の方が上だが、青年の動きは軽やかで掴みどころがなく、手数では〈雨男〉を上回っている。
徐々にではあるが、自分を捕えた体から余裕が消え失せてゆくのを翠も感じていた。
がぃん!と音を立てて青年のナイフと〈雨男〉の凶爪がぶつかる。鍔迫り合いだ。
『うっ、くぅっ……おの、れ!』
「いい加減引いたら? 人質を抱えてちゃ、いくら君でも分が悪いでしょう? それとも春じゃなく、おれに斬り刻まれたいの?」
『こ、の――!』
なおも踏み込もうとした〈雨男〉はしかし、刹那の逡巡の後、青年の方に翠を突き飛ばして身を翻した。
あっという間に頭上のビル壁を飛び越えて闇の奥へとその姿が消えていく。
翠は呆然と一連のやり取りを見守っていたが、血の匂いと殺気が消え失せたことに気が付くと途端に身体から力が抜けてしまった。バランスを失い、倒れかけた体を青年がそのまま支えてくれた。
「よく我慢したね、翠ちゃん。相当こわかったんじゃない? あは、震えてんの。ウケる」
「なッ……って、どうして……おれの名前を知っているんですか」
先ほどから青年は何度か翠の名前を口にしていた。しかし、翠は青年のことを全く知らない。一体どういうことかと口を開けば、青年はどこか謎めいた笑みを浮かべてみせた。
「おれは夏雪殉哉。春の数少ないともだちだよ、翠ちゃん。きみのことも春から聞いてる」
「春さんの、友達……?」
翠は面食らったようになって聞いた言葉を繰り返すのみだ。
「……友達いるんだ、あのひと」
「あはは! ひっどい。まあ春のことだから、そう思われていても無理ないけど。ついでにいうと、おれは友達にしかしてもらえなかったんだけどね。ま、とりあえず夏雪でも殉哉でも好きなように呼んでよ」
「……? は、はい。あの……夏雪さんはなんでおれを助けてくれたんですか」
「吸血鬼の得意技って知っている?」
「……え?」
殉哉は不意にそんなことを聞いてきた。
意図がわからない上、元より答えを知り得ない翠は首を横に振った。
「幻術さ。彼らは時に体を霧にして人間の目を欺く。あるいは意図的に姿を偽って獲物を誘いだすんだよ」
「それって、つまり……おれは春さんの姿をした、あの……〈雨男〉に誘い出されたってこと、ですか」
「察しがいい子は好きだよ」
殉哉はそれだけ言ってからからと笑う。
まるで他人事だというように。
「そんな……なんで。どうして、おれを」
「春が君を好きだから」
殉哉がこともなげに告げる。
「君のことをどうしようもなく好きになってしまったからだよ。君は春だけじゃなく、あの怪物の本性を揺さぶり、苦痛を与えているんだ。彼女は恐れたんだろうね、きみが春を変えてしまうことを。だから春よりも先にきみを葬ろうとした」
その手に抱いた翠の瞳を覗き込み、殉哉は残酷にも微笑んだ。
「きみはひどい女の子だな。もうすぐ死んでしまうのに、どうして春や彼の愛したひとを放っておかずに追い込み、狂わすのだろうね」
「お、れは……そんな」
「自覚していないだなんて言わせない。きみは誰よりも春を苦しめているんだよ、翠ちゃん」
「……おれは、でも……離して、離してください!」
「逃げられると思ってるの? おれから」
「ぐっ!?」
捕まえていた翠の背を壁に強く押し付け、殉哉が翠に体を寄せる。
両足の間に膝が押し込まれ、両手はいとも簡単に押さえつけられてしまう。
「ねえ、春とはどこまでいったの? もうヤッた? 春って意外と強引だから、はじめてだったら痛かったんじゃない?」
「やめてっ、おれは、そんな……」
「それともまだだったりする? それならいっそ、おれが奪っちゃおうか? 好きな女の子のはじめてを汚されたと知ったら、あいつはどんな顔するだろうね」
殉哉が翠の首筋に鼻先を埋め、きつく口付けをする。濡れた舌が首を舐った。
「や、だっ、いや、ぁ、春――」
「そうやって、きみは春の名前を呼んで助けてって言うんだ? 気に入らないな」
「んぅっ!?」
春の名前を呼びかけていた唇が塞がれる。まさか、と思った。殉哉が唇を重ね、翠の言葉を奪っていた。そのまま口内をぐるりとねぶられ、舌で舌を愛撫される。
拒否することはできなかった。身動きひとつとれない翠の破れた制服を殉哉の手が引き裂いていく。
春以外に許したことのない行為。触れられたことのない場所までも殉哉の手が這い回る。
「やめ、て。こんなの、おれ、はっ」
「かわいいね。でも淫らな子。服だって脱がされて、無理やりされてるのに感じたりしてるの?」
「ぁ……は、ッ……そ、んな、ことッ」
「もっと教えてよ。春の前ではどんな顔して鳴いてみせるの?」
「ぅ、あ……ぅっ」
甘く霞む視界を、恥と屈辱の涙が濡らしていく。
もうどうだっていい。どうせ死んでしまうおなら、このまま身を任せて心まで壊されても何も変わらないではないか。
翠の体から力が抜けていく。しかし、翠が屈しかけたときだった。
「――殉哉っ!」
怒りを滾らせた声が路地裏に響く。
「春、さん……?」
翠の唇が春の名前を紡ぐ。その憔悴した様を見て、春は表情をさらに険しく歪めた。
そして躊躇いもせずに踏み込み、殉哉を翠から引き剥がすと、その横面を思い切り殴りつけて引き倒す。
「ッたた……王子様の登場か。随分遅かったんじゃない?」
切れた口元に滲む血を拭いながら殉哉が皮肉げに笑う。
春は冷たい目でそれを見下ろした。
「うるさいよ。翠さんを助けてくれたことには礼を言う。でも死ね」
「ひどいなァ! あんまり可愛い彼女だから、ちょっと揶揄っていただけじゃない。熱くならないでよ」
「どの口が。立って、さっさと僕の前から消えろ」
「……ふん。言われなくてもそうするさ。またねぇ、春、翠ちゃん」
殉哉はとびきり邪悪に微笑んでみせると、颯爽と身を翻し、夜に消えていった。
春が翠の方に向き直る。
翠は何も言えずに自分の身体を硬く抱きしめる。歯の根が合わずかちかちと情けない音を立てている。
どうしよう。怖い。
〈雨男〉も、夏雪も、それに春のことも、今は。すべてが恐ろしくてたまらない。
自分は怪異に出会い、そしておそらく現実の埒外の存在にも遭遇してしまった。
こうして生きていることが不思議なくらいの窮地に先ほどまで立たされていた。
死にたくない。怖い。
さっきはただそれしか考えることができなかった。
なにが「春が自らを怪物だと貶めているのならそれを救う」だ。
現にこうしてまた自分は春に助けられているではないか。それに、春が吸血鬼だと言う事実を第三者……人間とは言えないものたちによって思い知らされてしまうだなんて。
「あ……おれ、は……こんな」
「翠、さん」
春の呼びかけに、翠はただびくりと肩を振るわせることしかできない。
それでも春は優しく、そして静かに語りかけてくる。
「怪我、していますよね。それにたぶん僕のことも今は……平気じゃない筈です。でも、だから――一緒に来てください。まずは手当をしないと。頷くだけでいい。返事をしてくれますか」
春は今の翠でもわかるように優しく説き伏せてくれた。
翠はおそるおそる頷き返す。そうしているうちに再び目に涙が浮かんだ。
翠の身体にほとんど触れることなく、春はそっと自分の夏用外套を肩からかけてくれる。それを胸の前に引き寄せ、翠は春の後に隠れながら歩き出した。
今宵、月は出ていなかった。
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