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シャトー豊平弐番館、405号室。
風呂を借り、湯を浴びて血汚れを落とした翠は、春のシャツを借りて着替えた。
〈雨男〉によって負わされた傷は浅いようで、痛みはなかった。簡単な処置をして、包帯を巻いておいた。
髪を乾かし、脱衣所からそっと顔を出して様子を伺うと、気がついた春が「こっちへ」と言って手招きした。
おずおずと歩いて春の傍まで近づく。
だが、この間のように完全に隣に座るのは無理だった。
苦笑いした春が「好きなところに座ってください」と言うので翠はその言葉に従い、ソファに座っている春から少しだけ距離をとってテーブルの前に座した。
沈黙が訪れる。
夏の夜の底に響くのは遠い喧騒。
「今日は」
お互いに別の方向を向いたままで、先に口をきいたのは春だった。
「……遅くなってすみませんでした。散々な日になってしまったでしょう。〈雨男〉……ルリのことも、殉哉くんのことも、全部僕のせいです。だから、翠さんが僕を恨むというのなら、それは仕方のないことです」
寂しそうに笑う気配がするが、翠はその言葉に対して答えられなかった。答えられる術を持っていなかったからだ。
だから、ただ膝を抱え、俯くばかり。
「かつて、僕は罪を犯したんです。贖うことのできない罪を。愛したひとを欲して、その血を吸ってしまった。他に何もいらないと思い、そう願っていた。だけど実情は浅ましくて気持ちの悪いただの怪物だった」
春は大切なことを――自らの罪状を告白しようとしていた。
「あの〈雨男〉は本来、僕の恋人でした。名前はルリ。きみより少し年上で、けれどとてもかわいらしいひとだった。それを僕は汚して、壊しました。好きでたまらなくて、愛していて、それを抑えることなんかできなくて、叶うことはないとわかっていながら、永遠を願ってしまった。だから彼女を襲い、苛み、その血を吸って、命のない怪物に変えてしまった」
それは恐るべき告白だった。
この街を脅かす殺人鬼は、春が生み出したものだったのだ。
薄々は知っていた。でも、本当はもっと早く訊ねるべきだった。
翠も春もそのタイミングをすでにして逸してしまっていた。
「僕は逃げ出した彼女を追って、この街に来ました。本来はただ平穏に、ただ寄り添って暮らすために選んだ土地でした。でもそうはならなかった。僕は彼女を葬るためにここへきたのに、それができずに時間ばかりが過ぎてしまった。その間に彼女は許されざる行為を――ひどい罪をたくさん犯してしまいました。それもすべて、僕のせいなんです。だから、罰を受けるならそれは僕じゃないといけないんです」
違うと言いたかった。そんなわけがないと。
でも、翠はそれを口に出すことができなかった。今更にして命乞いの言葉を内心に並べていたこの心が、身体が恥ずかしくて。
怖くないと必死に言い聞かせてきたことが、眼前で瓦解し、本心が顕になってしまったから。
それでいて春のことを救おうだなんて、ひどく烏滸がましいことだと思うから。
「それなのに、僕はまた……きみを好きになってしまった。傷つけるとわかっていて。苦しませると知っていて。こんなひどいことってないですよね」
「……そ、れは、そんなことは」
「ありますよ。現に今日、それが現実となってしまった。僕はきみを傷つけました。そうなのに、まだ僕はきみのことを――きみの血が欲しいと思っている。血が吸いたくてたまらなくて、手放したくなくて、汚いことばかり考えているんです。だからもう、ここまでにしましょうか」
「……え……?」
唐突に突きつけられた別れの言葉に翠の表情が歪む。
「今ならまだ間に合うから。だから、もう……ここまでにしましょう」
「な、んで……」
春は優しく微笑んでいた。
否、彼はそう見えるように努めていた。
「僕はきみを傷つけました。でも、これ以上はいけない。だから、今のうちに」
「――馬鹿も大概にしてください!」
気が付くと、翠は大きな声で春の言葉を遮っていた。
やっと声が出せたと思えば、翠の唇は半ば勝手に言葉を紡いでいた。
「みんなおれのためとか傷つけないようにとか、自己完結ばっかりで、おれから離れていく。春さんだってそう。でもっ、絶対に! 絶対にそんなの許さないんだから……!」
翠は春のそばに寄るとソファにその上半身を押し倒し、顔を近づけて続けた。
「確かにおれは少しだけ傷ついて怪我をしたかもしれません。春さんが来てくれなかったら、もっと酷いことをされていたかもしれない。けどっ……、そうはなっていないじゃないですか。春さんはちゃんとおれを助けてくれているんだから、もっと自分を信じてあげてください。おれのことだって……あまりみくびらないで!」
「でも、僕は」
「黙ってよ」
そう言うと、翠は噛み付くようなキスで春の唇を塞いだ。
自分から口付けをしたのはこれが初めてだった。春の舌を探し当てると、自分の舌を絡ませ、蕩し、心づくしの愛撫をする。
唇を離すと、真剣な目つきで春を見据えて言葉を続けた。
「たしかに、おれはこわかった。こわくてたまらなかった。でも、それはおれが弱いから。おれ自身の問題なんです。春さんになんか背負わせない。自分でなんとかできるから、傷つけるとかつけたとか、そんなことを言わないでください。おれは春さんが好きなんです。それだけで、たぶん、いいんです」
「……翠、さん」
「ほんとは……助けてあげたかったって、おれは少し思い上がってた。春さんがおれに優しいから、おれは調子に乗って怪物だと自分のことを貶めるあなたをそうじゃないんだと否定したかった。でも、もうやめます」
翠は春の輪郭を撫でるようにして頬に触れながら、決意を口にした。
「春さんが怪物だっていい。それでいいから、全部受け入れるから……最後までそばにいさせて。そうさせてください」
「でも……僕は、きみを助けてあげられないのに」
「それはお互いさまです。春さんの責任じゃない」
翠はようやくふわりと微笑んでみせた。大丈夫だと思えた。
おれはちゃんと笑えているのだ、と。
「翠さん、……翠。ありがとう」
「うん」
「……もういっかい、キス。していいですか」
「……はい」
そのままどちらともなく唇を重ねる。前より少しだけ深く、激しく。それでいてやわらかに、しっとりと。
それは恋人同士がするキスだった。
「……っていうか、この格好、けっこう恥ずかしい、し。いい加減どきますね……その、すみません。生意気な感じになっちゃって」
唇を離すと、急に臆した翠は春の腰に跨っていた体勢を解いて、彼から離れた。
やり場のない手でシャツの端を握りしめる。
うん、なんとも恥ずかしい感じだった。
「生意気だなんて、そんな。僕には絶景でしたし? たまには上に乗られておままごとされるのも気分がいいですね」
「うぅ、ば、馬っ鹿じゃないの!」
狼狽する翠の様子を見とめて、春はふんわりと微笑んでくれた。
ソファから離れてフローリングの上に立つ。
と、ぱたり――と床に緋が滴った。
ぱた、ぱた、と紅い雫が数滴したたり、翠はようやくそれが自分の脚の傷が開いて出血しているものだと気がついた。
「あ……すみません。なんか脚の傷、開いちゃったみたいで。春さんの服に血がついたりしていませんか?」
慌てて振り向くと、春が口元を抑えて床に倒れ込んでいた。
「ぁ……がっ……!」
「春、さん?」
床に爪を立て、這いつくばるように進む春の喉からは獣の唸りのような音が漏れていた。
「あ……」
床を汚した血を眼前にすると吐息が漏れ、数秒の間、抗い、ためらった後に耳障りな音を立てて溢れた血が啜られる。
異様でいて、獣性を感じさせる息遣いと唸りがやまない。
ぐるる、と喉を鳴らし、翠を見上げる瞳は獣物のそれだった。
春は眼前で怪異に――吸血鬼の姿へと変じようとしていた。
「春さん、……春さん! ごめん、なさい! おれの血のせいで――こんな、こんな、ことっ」
そこまで口にした瞬間に、人間のものとは思えぬ膂力で跳ね上がり、体勢を変えた春が翠の喉を抑えて壁にその背を叩きつけた。
「ぐ、ぁっ」
翠がたまらず呻いて自分の喉を閉める腕に縋ると、猫の眼のように瞳縮した春の瞳が揺らぐ。それはあの〈雨男〉――ルリと同じ瞳だった。
「はな、れて」
「……え?」
「にげ、て。くだ、さ、僕から――早く」
春は泣きそうに歪んだ顔でそう訴えていた。
翠の首を押さえつけていた腕の力がわずかに緩む。翠はなんとかそこから逃れると、玄関の方向に走りだす。最後に聞いたのは「逃げて」と、ただもう一度繰り返した短い警告の声だった。
春が。春さんが。
たったあれだけのことであんなふうに壊れてしまうだなんて。
なにより、吸血鬼――あの怪物めいた様子はひどくおそろしくて。
翠はただ春の警告に従うしかなかった。
扉を開くと、階下へと走る。エレベーターを待っている余裕などはなかった。
傷は傷んだが、ただ本能が逃げろと叫んでいるためか、脚は動いた。
誰かが追ってくる気配はなかった。
ただ温められた闇が背後にあるだけだった。
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