第六話 DArkSide

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 外の匂い――土と草、それに空気が熱くなる前の冷気を孕んだ独特の匂い。  それに強い日差しが僅かに開いた窓から差し込んでいる。  ……ごくありふれた夏の朝だった。  ふと目覚めた翠は携帯端末に手を伸ばし、時間を確認する。  土曜日、午前五時半。まだ早朝だ。  仕事明けで尚且つ朝の苦手な朱美は、あと数時間は眠っているだろう。  榎島家は静まり返っている。  一方で自分の意識は明瞭ですっきりとしており、二度寝の必要はなさそうだった。だから素直に布団から出て、薄手のカーディガンを羽織った。  これは自分だけの時間なのだ、と翠は思った。  寝台の上に座り、再び携帯端末を手に取るとメールやSNS、それにチャットアプリを確認していく。友人や知人からの連絡はあっても、春からの連絡はひとつも無かった。  溜め息を吐いて天井を、次に部屋の中を見渡す。  朝日に照らされた自分の部屋は、いつもよりきれいに整頓されている。  学校関連の品はまとめてカラーボックスへ、それ以外はクローゼットにまとめて収納しておいた。  机周りも片付けられており、残しているのは家族や友人、闘病仲間と撮った写真と写真立てのみだ。  机の横には大きめのキャリーケースが用意されていて、その中には自分で詰めた入院用の荷物が入っている。横に置いたサブバッグにも同様に荷物を詰めており、普段使いの財布や携帯端末、充電器など必需品以外はすでに一通り準備してあった。  翠の入院は週明けに迫っていた。  それなのに肝心の春からはこの一週間、連絡はなしの礫もない状態だ。  翠がいくら電話やメール、それにアプリで安否を問おうとしても、いっさいの返信がなかった。  でも、それは裏を返せばどの連絡手段も絶たれておらず、まだ彼とは繋がっているということを示していた。  ただ何らかの事情で春が返事をできないでいる――否、しないでいるだけなのだ。 「……あのばか。春さんの、大馬鹿」  携帯を寝台の端に放りなげ、一人ごつ。 「おれにはもう時間がないっていうのに。……ほんと、ばか」  あの夜。ミスを犯したのは春ではなく翠の方だった。  傷をもっとしっかり止血しておけば。自分が気をつけていれば。春があんなふうになることはなかったはずだ。  春はあの日話して聞かせてくれたルリという恋人との過去をまだ引きずっている。  すべてが自分のせいだと考え、背負い込んでいる。傷は生乾きのままなのだ。  その状態の春をああやって追い込んだのは翠自身だった。  それなのに。  春はきっとそれさえも自分のせいにしてあのがらんどうの家にたった一人で閉じこもっている。  翠を傷つけた、翠に見られてしまったとかなんとか、自分を責め立てる言葉を並べて、今も――。  ごめんなさい、と。それだけ言っても春は聞き入れてくれないだろう。  だって、悪いのは怪物である自分だと彼は決めつけている。  ただの謝罪と贖いの言葉では彼を救うことはもうできない。謝るだけではだめだ。  それくらい取り返しのつかない過ちを自分は犯してしまったのだ。  泣きそうな顔で「逃げろ」と告げた春の姿が脳裏に焼き付いて離れない。ひどく苦しそうで、悲しげな表情だった。あんな顔をきっと自分には見られたくなかっただろうに。  そうだ。何度もどうすべきか考えて、考えて、それでも答えは出なかった。  ただ、もうこのままにはしておくことはできない。  自分にも、彼にも時間はもうないのだから。  翠は気を取り直すと部屋から出て顔を洗い、軽く身支度を整えて台所に立った。  朱美が起きる前にスープとサラダを作っておこう。そう考え、水を入れた鍋を火にかけ、具材を切って用意していく。  あの日、ぼろぼろの姿で帰ってきた翠を見て、朱美はひどく驚き、憤っていた。だが優しく翠を介抱して寝かせると、翌日はじめて「あんたが話せる範囲で事情を話してくれる?」と訊ねた。  もうこれ以上の隠し事はしたくない。決心した翠はおおよそ自分に話せるすべてのことを朱美に打ち明けた。  翠の恋人――春に何らかの事情があることは朱美も前もって知っていたが、翠の話を丸切り信じてくれたかどうかは分からなかった。  ただ、朱美は「よく話してくれたね。ありがとう、翠」と言ってくれた。  いまのところはそれでいいと翠も思っていた。隠し事はしないということだけを守ることができれば、それでいい。 「……んん。おはよう、早いね、翠」 「ごめん、起こした?」 「いや、日差しで目が覚めただけ。あんた朝ごはんなんて用意してるわけ? よっと……わたしも手伝うわ」 「いいよ。今日はおれがやる。コーヒー淹れとくから、姉さんは新聞でも読んで待っていて」  自室から起きてきた朱美はまだ夜着のままだ。 「支度ができたら朝ごはん、一緒に食べてくれる?」 「わかった。お言葉に甘えます」 「腕によりをかけるから!」 「はいはい。指、切らないでよね、あと火傷も気をつけて。ほら、鍋が吹きそうだ」  苦笑した朱美は椅子に座り、新聞を広げる。  いつも通りに振る舞ってくれる朱美が、翠はひどく愛しく感じられた。  あと何回こうして朱美と食卓を囲むことができるだろう。  あとどれくらいこうして朱美と日常を営むことができるだろう。  ……おそらく、もうあまり時間は残されていないはずだ。  だからこそ、翠は「いつも通り」朱美に接し、朱美も翠に接する。残された時間を慈しむように共に過ごすのだ。 「姉さん。今夜、おれ、出かけるから」  コーヒーを出しつつ、翠は今宵の予定を告げた。朱美が顔を上げる。 「それは……彼氏のところ?」 「うん。何ができるか考えたけど、わからなかった。だから」 「奇襲攻撃でも仕掛けることにした?」  朱美がさらりと言ってのけたので、翠は思わず笑顔になった。  朱美はなんでもお見通しだ。 「そう。ひきこもり野郎を引き摺り出してやるの」 「あんたらしいわね。上手くいくといい、というか上手くやりなさい」 「わかってる。ありがとう」 「帰らないでしょ、今夜。というか帰ってきたら怒るわよ」 「…………ん。その、そういうつもり、です」 「ほんと、ばかな子」  そういうと手を伸ばし、翠の髪を朱美はくしゃくしゃと撫でてくれた。そのままふわりと優しく抱きすくめられる。 「あんたみたいな妹、ぜったい他にいない。あんたが妹でよかった」 「おれも……朱美姉さんがおれの姉さんで、本当によかった」  朱美の体温はあたたかく、柔らかで、いい匂いがした。  ずっとおれのそばに居てくれたひと。唯一の家族。  翠は心尽くしの抱擁を朱美に返した。 「ほら、また鍋!」 「あっ、ごめん! サラダは大丈夫だけど、スープが焦げて不味かったら申し訳ない」  慌てて調理に戻る翠を朱美は笑って見守ってくれた。  こんな時間がずっと続けばいい。知っている。そんなのは叶わない願いだ。だが分かってはいても、そう願わずにはいられない時間が過ぎていった。
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