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「すみません。少し遅くなった」
環波春は勤務先のバー〈proof〉の裏口から入店すると、素早く着替えてタイムカードを押し、カウンターに立った。
「ギリギリセーフだよ」
すでに開店準備を終え、最初に来店したグループ客たちのカクテルを作り終えていたらしいマスターの小此木陸人がにやりと笑って迎えてくれた。
「今日はまだ週半ばでお客さんも少ない。ま、気楽にやりましょ」
五十代後半の割には些か若く見える小此木は、すすきの界隈では評判のいいバーテンダーだ。〈proof〉にはそんな彼の作るカクテルを求めてやってくる客が後を絶たない。
従業員は店主の小此木と春を含めたパート・アルバイト従業員が三名所属しており、春はその中で最も遅いシフトに入る深夜帯スタッフだ。
元々の体質が夜型の春にとっては何かと都合がよく、人間関係も良好で、恵まれた職場環境だといってよい場所だった。
春が札幌に流れ着いて約半年になるが、幸いなことに仕事を変えたことも変えようと思ったこともまだなかった。
「こんばんは。やってる?」
ドアベルが鳴り、アースカラーのレインコートを羽織った青年が入ってくる。
「もちろん営業中です。カウンターの奥、空いてるよ」
小此木は笑顔で出迎え、青年がコートを掛けている間を見計らって春に目配せをする。彼は春の固定客だ。
春は頷き、おしぼりを取り出し、氷をいれたグラスに冷たい水を注ぐ。相手が席にかけて落ち着くのを見計らってそれらを差し出す。
「殉哉くん、久しぶり。さて、何をお作りしましょうか」
「じゃあ、ホーセズネックをお願いしようかな?」
「かしこまりました」
注文を聞くと、春は早速準備に取り掛かる。
ホーセズネックは細長く刻んだレモンの皮を添えて提供するブランデーをベースにした酒で、爽やかな香りとほんのりとした甘味が楽しめるロングカクテルだ。
螺旋剥きしたレモン一個分の皮をグラスの淵から中へと浸したデコレーションを目で味わうこともできる。その装飾が馬の首に見えたことからそう名付けられたらしい。
春が器用にレモンの皮を削いでいく様子を、殉哉と呼ばれた青年はどこか愉快そうに眺めている。
「最近どう。春は元気なの?」
「……僕はそれなりに。こうして適当に働かせてもらっているし、まあまあだね」
「えー。なんか今日はすこし違う感じだけどな」
「そう? 別にふつうだよ」
「なんていうか、なんかイイことあった? みたいな」
夏雪殉哉は職業年齢不詳で十分に怪しい客だが、妙に人懐っこいところがあり、見目麗しく人好きもするタイプだ。
春よりも男性的ではあるがツンと通った鼻筋に怜悧な眼差し、西洋の彫刻のような顔立ちを春も一目で気に入った口だ。両耳はたくさんのボディピアスで飾られており、耳の裏には小さな刺青が彫られている少し厳つい外見とのギャップも魅力的だった。
おまけに勘が鋭く、今のようなどこか風変わりなタイミングでこちらの心情や状況を言い当ててきたりするところも悪くはないと思っていた。
おそらくであるが殉哉も春を気に入っているようで、春のシフトが入っている夜をめがけて通ってくる常連客だった。
「いいこと? なにそれ。ないよ、なんにも」
「またァ、嘘吐き〜」
「嘘じゃないよ。本当さ」
切り終えたレモンの皮の端をタンブラーの淵にかけ、内側へ垂らす。そこへ氷を入れて、殉哉の好きな銘柄のコニャックを注ぎ、ジンジャーエールで満たすとできあがり。
「どうぞ。ホーセズネックです」
「ありがとー」
春に向かって酒杯を掲げてみせると、殉哉は一口を含んで、幸福そうに飲み下す。
「……うん、美味しい。やっぱりなんかあったんだ」
「はあ、しつこいな。どうしてそう思うのさ?」
「春のことだからね。おれにはわかるんだ」
「なにそれ」
「なんでもだよ」
杯を傾けながら艶然と殉哉が微笑む。まったく、仕方がない。
根負けした春は「たしかに、ちょっと面白いことはあったよ」と答えた。
「ほらァ、やっぱり! マスターも春の顔見てればわかるよねー?」
「ぼかぁ環波検定5級だからまだちょっと難しいかな」
「いや、なんですか環波検定って。勝手に謎の資格を競わないでくださいよ」
「おれは既に2級を持っているからね! まァ、このくらいは簡単にわかっちゃうんだよねぇ」
「あなたがたに合格通知出した覚えはないですよ」
謎の資格検定を持ち出し、小此木と殉哉が盛り上がる中で、春は夕刻の出会いを思い起こしていた。
リボンまで真っ黒なセーラー服。渋い銘柄の煙草。
相当に可愛らしいが、端的に言って変な少女だった。
ふっくりとした頬に薄い顎、つやつやした髪を今時古風なおさげ髪にして結っていた。アーモンド型の大きな瞳は鳶色で、あの年頃相応の好奇心をいっぱいにして輝いていた。
それなのにどこか蓮っ葉な物言いと態度で堂々と煙草をふかしていたのだ。
――こんなことは初めてだ、と思った。
葬式に忍び込んで遺体と対面して得るスリルや高揚感、ばかばかしさ、それらよりも少女との奇妙な出会いごときに心を躍らせてしまうなんて。僕が。
必要に迫られて始めたゲームはいつしか趣味や習慣といえるものと置き換わりつつあり、肝心の目的は未だ果たせぬまま。
それなのに、埒外の出来事ひとつに気を取られてしまうだなんて、なんて馬鹿。
「……楽しい、か。へんなの」
知らぬ間に口に出ていた一言を聞いていたらしい殉哉が意味ありげに微笑んだ。
「春は知っているだろうけど、ホーセズネックのカクテルには〈運命〉って言葉を当て嵌めることがあるらしい。花言葉みたいなものだな」
「何言ってんの、いきなり」
「だから、これは春の〈運命〉に。そう思って頼んだ」
「本当に意味不明なひとだね、殉哉くんは」
「それは褒め言葉ァ」
そう言って、殉哉はあっという間にグラスを開けてしまった。
「ちょっと、せっかくきれいに作ったんだから、もう少し味わって飲みなさい」
「はいはい、次のはそうするよ」
二杯目をどうしようか悩む殉哉の様子を見つつ、手元の片付けをしているとドアベルが鳴り、次のグループ客がやってきた。
外はいつの間にか雨が上がったらしい。傘やコートなどの雨具を身につけて入ってくる客はもういなかった。
水曜日の夜だというのに、結局その日も店は盛況で、春が一息をつく頃には深夜三時を回っていた。
相当機嫌が良かったのだろう、閉店間際まで居座った殉哉を見送り、春はかろうじて夜明け前に退勤して店を出た。
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