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ポップコーンをシェアして、翠はオレンジジュース、春はソーダ水といった具合にそれぞれがドリンクを注文した。
問題はどの作品を選ぶかだった。
映画館についたのは十七時半を過ぎた頃で、そうであるなら十八時前後に上映回があるタイトルに選択肢は限られてくる。
留年しているとはいえ翠はまだ高校生だ。最低でも終電には間に合うように返さないといけない。
「この時間だと、三、いや四作品くらいに絞られるけど、翠さんはどれが観たい? なにか興味のある映画があるならそれにしよう」
上映中作品のポスターとモニターに表示されたラインナップを見比べながら、春は翠の様子を伺う。
翠は思いの外真剣に上映作品を吟味しているようで、春の視線には気づいていないらしい。
本当に無防備。自分から攻めてくるタイプなのに、脇が甘い。
そういうところが可愛らしく思えて、春は軽はずみに誘ってしまったことを少し後悔した。
相手は年下の子どもなんだ、と実感して。
「あ! おれ、あれがいいです」
「ん。どれ?」
「五十分からのやつ。9番スクリーンの」
翠が指をさした作品のタイトルを見て、春は一瞬ぎくりとして固まってしまった。
それはよりにもよって主要登場人物の一人が吸血鬼のホラー・ラブストーリーだった。北欧で撮られた作品らしく、仄暗いトーンの画面とシリアスでダークな物語で、本来であれば嫌いではないジャンルではあるのだが。
「その……念のため、選定理由は?」
「うん? けっこうしっかりしたホラーだし、ちょうど最近気になってる監督の作品だからですが。それにヒロインが吸血鬼ってところが設定として美味しいと思うから」
「そう、ですか」
「他のにしますか?」
「え。いや、大丈夫です。それを観ましょう」
ぎこちない春の返答に少し怪訝そうにしながらも翠は満足そうに頷いた。
いや、美味しいって。
そんなに美味しくいただけるほど愉快なものじゃないですよ、吸血鬼。
内心で謎のツッコミをいれながら、開場のアナウンスを待つ。
「そういえば、門限とかは大丈夫ですか。この前はええと、お姉さん? と一緒だったけど」
葬式で会ったとき、翠には年嵩の女性が付き添っていた。翠とは雰囲気の違った美人だったが、翠の態度からしておそらくは姉妹であると思われた。
「それは平気。うちは姉と二人暮らしで、姉さん……朱美っていうんですが、そんなに厳しくないから。同級生と遊んで帰るから遅くなると伝えてあります」
「いや……それ、嘘吐いて出てきたってことでしょ」
「同級生ってところ以外は本当じゃないですか。嘘には真実を混ぜるといいんですよ。知りませんか?」
「そういうことではなくて」
「まあ、男のひとと会うって言った方が姉さんは喜んだと思います。いつもおれが彼氏の一人も作らないでぼうっとしているってうるさいから」
「どういうお姉さんなんだ」
「かっこよくて立派な姉ですよ。おれのこと、面倒くさがらないでみてきてくれたし」
翠はそう言って、苦味を含んだ微笑みを浮かべて見せる。
姉と二人暮らしということは、いつの頃からか時期はわからないが、その姉に育てられてきたということだ。
思うに翠はなにか病を抱えている。それは間違いないだろう。その翠を育てながら自身も自立して暮らしている。それがどんなに大変なことかは想像に難くない。
「……たしかにそれはそうだな。相当美人だったし」
「いきなりなに! ちょっと、おれは!?」
「翠さんはタイプが違うから。どちらかと言えば可愛い系じゃないですか? アーモンド型の瞳は大きいし、頬はふっくりして色白で。今日はナチュラルだけどお化粧もしていますね。うん、やっぱり女の子らしいですよ」
「なッ……なんッ、なんなのもうっ!」
揶揄われたと思ったのか、翠がばしばしと春の腰を叩いてくる。
そうやって慌てて困っている顔が可愛いと思うのは些か嗜虐的だろうか。
『大変おまたせしました。これより十七時五十分上映、9番スクリーンの入場を開始いたします。チケットをお持ちの方は入場口までお越しください』
そこでアナウンスが掛かり、二人はチケットを確認すると入場口に並ぶ客たちに続いた。
チケット確認の列に並ぶ間、頬を赤くした翠は口を聞いてくれなかった。
映画の内容自体は意外にも満足のいくものだった。
翠のセンスは悪くないらしい。
登場人物の死や別離、あるいはストーリーの起伏とは関係なく、春自身の体験や感情と重なって、不覚にもいくつかのシーンで涙が溢れてしまうことがあった。
……ハンカチを取り出すのも、目元を拭うのも泣いていることを翠に気取られてしまいそうで、春は仕方なくそのままにしておいた。
本編が終わる頃にはどうせ涙も乾いている筈だ。
それに、だいたいこれは翠が観たいといった作品だ。それでは当の翠はどんな様子で観ているのだろう?
やられっぱなしは嫌だった。
だから少し意地悪を働くような心持ちで、バレないように右隣に座った翠の方に視線を向ける。
少女は真っ直ぐにスクリーンに視線を注ぎ、涼しげで凪いだ横顔をしていた。その眦からは大きな涙の粒が次から次へと溢れていた。
翠と春は同じ映画の同じ場面で泣いていた。
一瞬、驚きで目を丸くして、春はすぐにスクリーンに視線を戻す。
――ああ、本当に、この子は。
見てはいけないものをみてしまった気持ちになると同時に、空っぽだった臓腑をあたたかな何かが満たしていくような得難い感覚に囚われる。
ふわふわとした酩酊感に似たなにか。
その正体を探しあぐねている間に、映画は終わってしまった。
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