ワンダフルドールズ

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 三月三日の夕方のこと。その日は土曜日で、出かけていたご家族が帰ってきたと思ったら、家いっぱいにえりちゃんの泣き声が響きました。 「エナちゃん、エナちゃんがーー」  その涙声を聞いてわたくしは胸がざわつきます。  リビングに入ってきたえりちゃんたちご家族の話をまとめると、どうやら今日皆さんで出かけたとき、えりちゃんは一緒に連れて行ったエナさんをどこかで落としてしまったそうなのです。エナさんをしまっていた丸いポシェットは小さくて、エナさんは体の半分しか入らないサイズです。エナさんはどこかでこぼれ落ちてしまわれたのでしょう。  お父様とお母様はえりちゃんを慰め、それからお父様は慌ててお出かけになり、お母様は電話をおかけになります。お母様のお話の内容からすると、今日お出かけになった動物園や駅などに問い合わせをなさっているようです。ですが、どこからも良いお返事はありません。数時間後に帰ってきたお父様も首を振るばかり。  可哀想に。せっかくのひな祭りだと言うのに、えりちゃんは泣き疲れて眠ってしまいました。お母様がせっかくご用意なさったちらし寿司やひなあられもそのままです。  その晩、わたくしは祈りを捧げていました。えりちゃんが一年間、幸せで健康でありますように、と。今日、三月三日のひな祭りの晩にそれを祈るためにわたくしは毎年こうして飾られるのですから。ですが、今年はいつもと少し違います。 「祈りの力を使って、エナさんを連れ戻します」  わたくしがそう宣言すると、三人官女は驚いて目を丸くしました。 「あ、あんな人形のためにどうしてお雛様がお力を使うのですか」  わたくしがすっと立ち上がると、途端に三人官女は口をつぐみました。 「あなたたちも見たでしょう? えりちゃんはエナさんを失って、泣いていました。心の底から悲しんでいます。エナさんを戻すことが、えりちゃんに幸せをーー笑顔をもたらすのです」  するとすぐ隣から「それは良い」とお内裏様がおっしゃいました。 「我々はえりちゃんの幸福のためにいるのだから、あの人形を連れ戻すことでえりちゃんが笑顔になるのならそうしなければならない」  わたくしはお内裏様に「ありがとうございます」と頭を下げ、一心に祈りました。  どうかえりちゃんがこの一年間、幸せで健康でありますように。  えりちゃんの笑顔のために、エナさんがこの家に戻りますように。  するとわたくしの目の前に白い光の玉が浮かび上がりました。その玉は徐々に形を変え、やがて一台の牛車になったのです。  わたくしはその牛車に呼びかけます。「どうか、エナさんを連れ戻して」と。  うなずくように轅を下げた牛車は一瞬で姿を消しました。そしてきっかり一時間後、またわたくしの目の前に現れたのです。  中からゴトゴト音がして、簾からエナさんが顔を出しました。 「エナさん!」  悲鳴のように叫ぶと、わたくしは立ち上がって牛車に駆け寄ります。こういうときに十二単だと上手く動けなくて、つまずきそうになります。  エナさんはためらうように二、三度こちらの様子をうかがいながら、やがて牛車から雛壇へ降り立ちました。わたくしはそのお姿を見て、はっと唇を閉じました。  エナさんは顔も体も泥だらけでした。美しい金髪はボサボサで、細かな砂粒やごみが絡みついています。桃色のワンピースもそこかしこが破れていました。 「……人通りの多いところでえりちゃんのポシェットから落ちちゃったの。たくさんの人に蹴られたり、踏まれたりしてこんな有り様」  ぽつりぽつりとエナさんは震え声で話します。 「もう、私、えりちゃんと遊べない。こんなにボロボロの私なんて、えりちゃんのところに戻っても見向きもされない」 「そんなこと絶対にありません!!」  今までに出したことのないような大声をわたくしは出していました。  わたくしは三人官女に振り向きました。 「ひとりはエナさんのお顔と体をきれいにして、あとのふたりはエナさんのワンピースを繕って差し上げて! えりちゃんが目覚めるまでに、絶対にエナさんを元のお姿に戻すのです!」  それから、わたくしは雛壇から飛び降りました。わたくしが毎晩雛壇から降りていることを知らないお内裏様も三人官女も驚いていますが、それに構っている暇はございません。  わたくしはえりちゃんのおもちゃ箱に駆け寄ると、中に入っているエナさんのドレッサーからブラシとお化粧道具を手に取りました。雛壇に戻ると、わたくしは三人官女のひとりを手伝ってエナさんのお体を布でぬぐいます。  三人官女はわたくしが立ち働くところなんて見たことありませんから、それはもうびっくりして完全に手が止まっています。それを叱咤して、わたくしたちはどんどんエナさんをきれいにしていきます。  エナさんのお顔もお体もきれいになって、ワンピースが繕い終わったのは夜が明ける頃。最後にわたくしはブラシで、エナさんの美しい金髪を梳りました。  エナさんはすっかり元のお姿に戻りました。ぱっちりした丸い目に、桃色の頬。美しく長い金色の髪。桃色のワンピースを着たお姿は、まるでおとぎ話のお姫様のよう。えりちゃんの大好きなエナさんです。  エナさんはこっそり窓から抜け出して、玄関のドアのすぐそば、傘立ての陰に倒れました。だから朝のランニングに出かけようとしたえりちゃんのお父様がすぐに気づいてくれたのです。お父様に起こされたえりちゃんはエナさんを見て大喜びで抱きしめました。そのすぐ脇でお父様とお母様は首をひねっていましたが、やがて「見落としていたのかな」と笑い合っていました。  ああ、よかった。わたくしの祈りは今年も届きそうです。えりちゃんはすっかり笑顔になりましたから。
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