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結局、その沈黙を破ったのは彼女のほうだった。
躊躇うような素振りを見せてから、彼女はおずおずと、言葉を選ぶようにしてこう告げた。
「あのさ…、あのね…。
最後にさ、珈琲を飲ませて欲しいんだけど…」と。
やや唐突にも思える申し出に戸惑いを抱きつつも、僕は「うん、分かった」と言葉を返す。
そして、テーブルの上に在った電気ケトルを手に取ってシンクへと向かう。
蛇口を捻って水を半ば程まで注ぎ入れてからコンセントへと繋ぎ、お湯を沸かし始める。
それから冷蔵庫へと向かい、冷凍室の中からコーヒー豆の入ったジップロックを取り出す。
彼女は安堵した様にてテーブルの向こう側の椅子へと腰を掛ける。
僕は大振りの木匙でジップロックからコーヒー豆を掬い出し、ハンドミルの中へと放り込む。
「カラカラ…」と、乾いた音が小さく響く。
「どれくらい飲むの?」と、僕は彼女へと問い掛ける。
「う~ん…、そうだねぇ。
これでもう最後だから…、タップリでお願い!」と、彼女は戯けた調子にて答えを返す。
「そっか…、もう最後だもんね。サービスしとくよ!」と、僕も至って軽い調子にて言葉を返す。
その調子とは裏腹に、『最後』という言葉を口にしたその途端、彼女とはもう別れてしまうのだという事実が、恰も鉛の塊のようにして僕の胸中に重さや冷ややかさをもたらし始める。
そんな思いから気を逸らしつつ、普段より多めの豆をハンドミルの中に入れた僕は、力を込めてハンドルを廻し始める。
「ゴリゴリッ!」と、豆の砕ける音が振動と共に辺りへと響き渡る。
テーブルに両肘を付き、両の掌の上にその顎を載せた彼女は、僕が豆を挽く様を愉しげな表情にて見詰めていた。
長くて艶やかな彼女の睫毛はいつに無く頻繁に瞬きを繰り返しているようだった。
そんな彼女から視線を逸らした僕は、リビングの様をぼんやりと見遣る。
窓を覆う薄灰のカーテンの隙間からは茜に染まりつつある空が仄見えていた。
哀感を滲ませたような空の色を目にした僕は、もう夕暮時なのかと驚きにも似た思いを抱かされる。
そして、リビングの窓には、元々は黒い遮光カーテンが掛っていたことを思い出す。
「真っ黒な遮光カーテンだとさ、朝が来たって分からないよ。
それにさ、年がら年中部屋の中が真っ暗だと夜みたいで嫌なんだけど。
何だか根暗になっちゃいそうだし」と、僕の部屋に入り浸り始めた頃の彼女が文句を付けてきたので、駅近くのホームセンターで好みのカーテンを選ばせたんだっけ、とハンドルを廻しながら回想へと耽る。
ハンドルから伝わり来る振動は彼女と過ごした日々の思い出へと誘うようであって、胸中にはじんわりした感慨が込み上げつつあった。
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