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部屋の中には芳しい珈琲の薫りが漂っていて、それはこれまでの週末を思い返させるものだった。
週末の朝、彼女は放っておけば何時までも眠りを貪っていた。
残業続きの日々を送り、忙しさのあまり食事もまなならぬといった状態の彼女を慮りつつも、痺れを切らした僕が昼前には起き出し、そして珈琲を淹れるのが常だった。
漂う芳しい薫りにより何とか惰眠からの誘惑を断ち切った彼女へと珈琲を差し出すのが目覚めの儀式みたいなものだった。
振り返ることも無く部屋を出て行ってくれた彼女に対し、僕はしみじみと感謝する。
もう彼女が戻ることの無い部屋で、誰の目を憚る事も無いままに感情を露わに出来ると思ったから。
漂う珈琲の薫りが何とも疎ましく思えてしまったので、湿り気を帯びたペーパーフィルターを取り上げた僕は、それをシンクの中へと叩き付ける。
「ベシャン!」と気の抜けた音がシンクの中に虚しく響く。
もっと派手な音を立ててくれたら良かったのにと思いながら、がっくりと椅子に腰を下ろす。
程無くして、喉の奥から嗚咽が込み上げ始める。
自分が招いた結果なのに、自分が望んだ結果なのに、どうしてこうも嗚咽が込み上げてきてしまうのか不思議でならなかった。
今、嗚咽を漏らしているのは自分だけれども、そんな自分を醒めた目で見詰めている自分もまた居るように感じられ、それはとても不思議だと思った。
そして、こう思った。どうして、どうして僕は彼女と別れなければならなかったのだろうと。
別に嫌いになった訳でもないのに。
別に鬱陶しいことなんてなかったのに。
彼女が主張するところの「距離感」や「温度感」だって、僕にとっては割合に好ましく思えるものだったのに。
こうも思った。
きっと、彼女だって訳が分からなかったんだろうな、と。
十一月の初旬の陽は、落ちるのが殊の外早かった。
僕がようやく椅子から立ち上がった頃には、とっぷりとした夕闇が世を満たしていた。
彼女と一緒に荷造りした段ボールをコンビニへと持って行き、発送の手続きをした。
お釣りのことを考えるのも面倒臭かったので、彼女が置いていった幾枚かの紙幣は部屋の引き出しにあった茶封筒に入れて荷物の中に忍ばせておいた。
送料は僕が払った。
それくらいはせめてもの餞別ってことで良いよな、と思った。
彼女は最後のコーヒーを飲み損ねてしまった訳でもあるし。
発送を終えて戻った部屋は、妙に味気無くて、そして寒々としていた。
彼女が持ち込んだ様々な品々によって、僕の部屋は彩られていたのだと、その時になってようやく気が付いた。
彩りが喪われた部屋の中、一体どんな夢を見るのだろうかと思った。
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